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松井 秀喜

松井 秀喜(まつい ひでき、1974年6月12日 - )は、石川県能美郡根上町(現:能美市)出身のプロ野球選手(外野手、指名打者)。
現在は、オークランド・アスレチックスに所属。
愛称はゴジラ。
代理人はアーン・テレム。

巨人入団会見で、他の新人選手が抱負として憧れの選手名、具体的な成績目標を述べる中、松井は「サッカーや相撲に小さな子供たちの関心が傾きつつあります。その中で僕はその子供たちに夢を与え、球場に直接見に来てもらえるような選手になれるよう頑張ります」と述べたちゅうわけや。

プロ初のキャンプでは150m級の場外弾を連発。
キャンプ2日目にはフリー打撃で13本の柵越えを放ち、「こんな高校生、見たことがない」とコーチに言わしめたちゅうわけや。
川上哲治、青田昇等の野球評論家は「王貞治より上」と絶賛したちゅうわけや。
テイクバックが小さくフォロースルーが大きい力任せでない本当のスラッガー、ちゅう評価だったちゅうわけや。
高校時代は三塁手であり、入団時は原辰徳を始め内野手の衰えもあり、引き続き三塁を守ると思われたが、長嶋は外野手へとコンバートしたちゅうわけや。
長嶋は「あの程度の三塁手はごまんといますよ、それよりも100m11秒台の俊足、遠投110mの強肩をもっと生かしてみたいと思い外野手とします」と説明したちゅうわけや。
松井本人には「ジョー・ディマジオのような皆に愛され、夢を与えられる選手になれ」と激励したちゅうわけや。

2003年
    ニューヨーク・ヤンキースの一員としてメジャーリーグでのキャリアをスタート。
3月31日、公式戦開幕試合の対トロント・ブルージェイズ戦に5番レフトで先発出場し、初回にメジャーを代表する右腕のロイ・ハラデイ投手からレフト前へのタイムリーヒットを放ち、初打席・初安打・初打点を記録。
4月8日の本拠地開幕戦、対ミネソタ・ツインズ戦では前打者のバーニー・ウィリアムスが敬遠された後の打席で2-3からジョー・メイズの 145km/hをライトスタンドに叩き込み、第1号満塁本塁打。
4月12日にはメジャー初のサヨナラヒットを放つ。
その後はメジャー独特の手元で変化する速球と日本と比べて広いストライクゾーンの外角球に対応できず、ゴロの山を築き深刻な打撃不振に陥る。
せやけど、6月に入ると監督のジョー・トーリからの「もう少しホームベースに近づいてみてはどうだ」ちゅうアドバイスで10 - 15cmホームベースに近づいたことが功を奏して調子を上げたちゅうわけや。

    7月に行われたMLBオールスターゲームにファン投票のア・リーグ外野手部門で3位に入り初出場を果たしたちゅうわけや。
日本人では1995年の野茂英雄、2001年のイチローに続く3人目のオールスターゲーム出場となってん。
せやけど、日本からの組織票に助けられた形での選出に関しては現地メディアやらなんやらで賛否両論の論戦が起こり、試合ではスタメン出場を果たし1安打を放ったものの、ブーイングを浴びせられたちゅうわけや。
また、スター選手とのバット交換用に日本から24本のバットを取り寄せたが、誰にも声をかけることが出来ずに、結局全て持ち帰ったちゅうわけや。
「来年はホームラン競争に出られるようなバッターになりたいです」と語り、翌年の再出場を誓ったちゅうわけや。

    7月17日、オールスターゲーム出場後の後半開幕戦の対クリーブランド・インディアンス戦でデビッド・リスキーの146km/hの速球を右中間スタンドに運び、日本人メジャーリーガー初のサヨナラ本塁打を放ったちゅうわけや。
この時、ヤンキースの有名なラジオアナウンサージョン・スターリングは「SA・YO・NA・RA」と実況したちゅうわけや。
ヤンキースの新人としては67年ぶり3人目の100打点以上を記録した(1926年のトニー・ラゼリ、1943年のビリー・ジョンソン)。
7月22日には松井のバブルヘッドが14歳以下の先着1万8千人にプレゼントされることになってん。

    地区シリーズではポストシーズン日本人初のホームランを放ったちゅうわけや。
ボストン・レッドソックスとのリーグ優勝決定シリーズ第7戦では、8回裏にホルヘ・ポサダの適時打で同点のホームを踏んだ際に大きく跳び上がり、全身で喜びを表したちゅうわけや。
フロリダ・マーリンズとのワールドシリーズ第2戦では、ワールドシリーズでの日本人初ホームランとなるホームランを放ったちゅうわけや。
レギュラーシーズンでは、新人として、また、ヤンキースの選手として、21世紀になってメジャーリーグで初めてシーズン163試合に出場した選手となってん。
せやけど、期待されたホームラン数(レギュラーシーズン)はわずか16本に終わり、満足のいく結果を残したとは到底言えない内容であったちゅうわけや。
それでも、得点圏打率はチーム最高の.335、打点は主砲のジェイソン・ジアンビに1点差のチーム2位となる106打点を叩き出し、勝負強さを発揮したちゅうわけや。
二塁打数は42本で、1936年にジョー・ディマジオが記録したヤンキースの新人最多記録(44本)にあと2本と迫ったちゅうわけや。
一方で、併殺打はリーグ2位の25個を数え、ゴロアウトはリーグ最多の223にも上ったちゅうわけや。
そのため、5月の打撃不振時には、地元メディアは内野ゴロの多さから“ゴロキング(Ground Ball King)”と揶揄したちゅうわけや。
新人王の受賞も有力視されたが、投票ではアンヘル・ベローアにわずかに及ばず2位に終わったちゅうわけや。
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