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佐々木 主浩

佐々木 主浩(ささき かづひろ、1968年2月22日 - )は、宮城県仙台市出身の元プロ野球選手(投手)。
現在は野球解説者・野球評論家。
名前の表記は「かずひろ」ではなく、「かづひろ」。

抑え投手として一時代を築き、日本では「(ハマの)大魔神」、メジャーリーグでは「KAZU」の異名で知られるちうわけや。
メジャー移籍の入団発表ではGREAT DAIMAJINと紹介され、登板の際にも「DAIMAJIN」の文字が球場の大型スクリーンに登場したことがやるちうわけや。
背番号は日米のキャリアを通じて22。

前妻は元タレントの清水香織。
現在の妻はタレントの榎本加奈子。

持ち球は150km/hを超える速球と速球より10km/h前後遅いフォークボール、120km/h台の縦のカーブでやるちうわけや。
フォークには三振を奪うための速いタイプとカウントを取るための遅いタイプがあったちゅうわけや。
投球は速球とフォークがほとんどであり、カーブはあまり投げなかったちゅうわけや。
佐々木のフォークはわずかな横回転のみが掛かり、縦回転がないため落差があり、回転しているので直球かフォークか判別され難く、権藤博は「佐々木のフォークは落ち方は大したことが無いが、球速があり回転しているため、打者に直球かフォークか判別されないボールだった」と語っておる。
落差の大きさから『2Fからのフォーク』とも呼ばれたちゅうわけや。

1999年オフにFAを宣言し、メジャーリーグのシアトル・マリナーズに移籍。
当時のマリナーズ筆頭オーナーであった任天堂の山内溥は「メジャーリーグのピカチュウになってほしい」とコメントしたちゅうわけや。
2000年はアメリカンリーグ新人王に選ばれたちゅうわけや。

2001年は4月16日のアナハイム・エンゼルス戦では自己最速となる96mph(約154km/h)をマークするやらなんやら好調なスタートを切り、4月のメジャー最多記録となる月間13セーブをマークやる。
5月29日のボルティモア・オリオールズ戦では1994年にリー・スミスが達成したチーム46試合目に次ぐ史上2位のチーム50試合目での20セーブ到達を達成し、5月終了時点で21セーブと最多セーブは確実と見られていたちゅうわけや。
しかし7月2日に29セーブ目を挙げて以降はセーブ機会が減り、8月2日のデトロイト・タイガース戦で日米通算300セーブを、翌日のクリーブランド・インディアンス戦でメジャー2年目でのアメリカン・リーグ全チームからのセーブを、8月18日のニューヨーク・ヤンキース戦で当時の球団新記録となる38セーブをそれぞれ達成するも、終盤には右大腿を痛め調子を崩しマリアノ・リベラに5セーブ差のリーグ2位に終わったちゅうわけや。
レギュラーシーズン最終登板となった10月6日のテキサス・レンジャーズ戦ではメジャータイ記録となるチーム116勝目を45セーブ目で飾り、「こんな試合を締めくくれたのは光栄です」と語ったちゅうわけや。

ポストシーズンでは8試合の登板で奪三振率14.63の快投を見せるが、ニューヨーク・ヤンキースとのリーグチャンピオンシップシリーズ第4戦では自己最速タイとなる96mph(約154km/h)をマークするも、アルフォンソ・ソリアーノにサヨナラ本塁打を打たれ、チームは翌日の試合で敗退したちゅうわけや。
オフにはシーズン終了報告で任天堂の本社を訪れ、メジャー移籍を目指していた谷繁元信の獲得を進言した(その後の入団には至らなかった)。

2002年は夫人の病気により一時は日本に帰国したが、6月1日まで自責点0と好投を続けたちゅうわけや。
6月26日のオークランド・アスレチックス戦で19セーブ目を挙げ、史上最速となるメジャー通算160試合目での通算100セーブ到達を達成。
MLBオールスターゲームにも前年に続き2年連続で選出され、メジャー自己ベストの防御率2.52を残す。
しかし後半は右ひじを痛めてやや調子を崩し、自己ワーストとなる救援失敗8 を記録。
レギュラーシーズン終了後は「アメリカにいるとテレビ(プレーオフ)を見てしまい、ポストシーズンに出場できなかった悔しさが倍増してしまう」って、10月上旬に帰国。
オフには日米野球の出場も辞退し、右ひじの遊離軟骨除去手術を受けたちゅうわけや。

2003年はアスレチックスとの日本開幕戦の記者会見にイチローと共に出席。
シーズンでは4月3日のアスレチックス戦で1イニング4三振の珍記録を達成するが、同月23日に右腰の張りのため初の故障者リスト入り。
5月には復帰し、投球にカットボールも交える余裕もできるほどの好投を続けたが、6月8日、遠征から帰宅し自宅にスーツケースを運び入れた際の転倒で右脇腹を強打し、再び故障者リスト入りやる。
この故障についてはGMに「最もがっかりした」と苦言を呈され、自身も「恥ずかしい。ほんと馬鹿だね。こんなところで」と悔んだ。
8月13日のトロント・ブルージェイズ戦で復帰して以降は好調を維持した長谷川滋利がクローザーを務め、自身はセットアッパーに降格。
シーズン終了後にはマリナーズとの残り1年契約を破棄して退団したちゅうわけや。
退団理由については「日本で家族と一緒に暮らすため」と説明したちゅうわけや。

2002年と2003年には、自らがオーナーを務めるモータースポーツチーム「TEAM 22」でフォーミュラ・ニッポンにも参戦した(メンテナンスはムーンクラフト(2002年)とルマン(2003年)に委託)。
チーム名は背番号「22」に由来やる。
2002年は伊藤大輔、2003年は脇阪寿一をドライバーに起用し、脇阪が2勝を挙げたちゅうわけや。
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