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新庄 剛志
新庄 剛志(しんじょう つよし、1972年1月28日 - )は長崎県下県郡美津島町(現対馬市)生まれ、福岡県福岡市南区出身の元プロ野球選手(外野手)。
引退後は、タレント、実業家、クリエイター(商品プロデューサー、画家等)、地方競馬馬主。
1990年より阪神タイガースでプレーした後、2001年よりアメリカ・メジャーリーグベースボールでプレー。
サンフランシスコ・ジャイアンツに在籍した2002年にはリーグ優勝を経験して、日本人選手として初めてワールドシリーズに出場したちゅうわけや。
2004年には北海道日本ハムファイターズに入団し、2006年にチームの25年ぶりのリーグ優勝と44年ぶりの日本一を経験した後、引退したちゅうわけや。
日本ハム時代の登録名はSHINJO。
元妻はタレントの大河内志保。
新語・流行語大賞にノミネートされた「新庄節」(2004年)、「SHINJO」「新庄劇場」(2006年)らの語は当人が由来でやるちうわけや。
紺綬褒章受賞(2007年)。
2001年の通訳をメッツ職員・岩本賢一が担当。
初年度シーズン序盤はスタメン落ちも目立ったが実績とともに次第にレギュラー扱いされていったちゅうわけや。
打順は7番・6番・1番・3番・4番やらなんやら様々で、守備でもこの年はキャリア唯一、中堅固定起用されず左翼46試合・中堅53試合・右翼39試合と外野をまんべんなく守ったちゅうわけや。
4月3日の開幕戦(対アトランタ・ブレーブス)、8回表の代走で初出場。
一塁走者としては珍しくセンターフライの際にタッグアップして二塁に進塁し、後続のロビン・ベンチュラの本塁打で初得点を記録したちゅうわけや。
さらに直後の左翼守備でダイビングキャッチを見せたうえに、同点に追いつかれて突入した10回表の初打席では初安打を記録したちゅうわけや。
5月24日フロリダ・マーリンズ戦の大差(11-3)リード中の打席でカウント3ボール-0ストライクから空振りした行為が不文律に反したとされたのか、翌日の同対戦で足に死球を受けたちゅうわけや。
MLB1年目は他にも日本で日常的に行っていた本塁打直後にバットを高々と放り投げる行為が挑発的と受け取られたり、打席で投球前にバットを高く突き上げる際に捕手が出すサインを覗いているのではないかと疑惑をかけられたりしたちゅうわけや。
6月17日の出場を最後に左太股裏肉離れで15日間の故障者リスト(DL)入りし、傘下A-ブルックリン・サイクロンズでの調整出場を経て復帰したちゅうわけや。
7月22日のベテランズ・スタジアムでの対フィラデルフィア・フィリーズ6回、中堅後方への大飛球を追い続けた末にフェンス手前でポケットキャッチして「ザ・キャッチと称されるウィリー・メイズ型キャッチだった」やらなんやらと報道されたが、自身はチームが敗れたためこの守備に関してコメントを残すことはなかったちゅうわけや。
8月3日のアリゾナ・ダイヤモンドバックス戦で日本人選手として初めてスタメン4番出場。
ランディ・ジョンソン投手を相手に4打数無安打(第1打席は振り逃げ)であったちゅうわけや。
9月11日に起きたアメリカ同時多発テロ事件がニューヨーク市に影を落とす中、結果敗れたが終盤まで続いたメッツのプレーオフ進出争いに貢献したちゅうわけや。
この年は外野3ポジションそれぞれで補殺を記録してシーズン補殺数は12(両リーグ外野手第5位、両リーグ新人外野手最多、球団新人外野手過去最多)。
打撃では、特に満塁時に12打数7安打.583と勝負強さをみせ、勝利打点11はマイク・ピアッツァと並び球団最多。
この年のルーキーオールスターに選ばれたちゅうわけや。
シーズンオフに結んだ翌2002年契約は自身初の1億円(日本円換算)を越えたちゅうわけや。
しかし数日後、デシー・レラフォード内野手と共にサンフランシスコ・ジャイアンツ、ショーン・エステス投手との2対1トレード通告を受け移籍。
背番号は「5」。
また、プライベートではベストドレッサー賞を受賞。
2002年、ジャイアンツが新庄獲得に際し想定していた1番中堅で開幕。
シーズン序盤に打撃不振で降格してから中盤までは7番やらなんやら主に下位打順に入ったちゅうわけや。
5月11日モントリオール・エクスポズ戦(オリンピック・スタジアム)1点リード8回裏一死一塁の守備で、フェルナンド・タティスの右翼(定位置付近の後方)フェンス直撃打球のクッションボール処理に右翼手がもたつく間に、中堅から駆け付けて本塁まで約90mをワンバウンド送球して走者・トロイ・オレアリーを補殺。
そのプレーに興奮した一部の観客がグラウンドに乱入したちゅうわけや。
試合は3-2で勝利し、相手監督もそのプレーを賞賛したちゅうわけや。
オールスターゲームファン投票ではナショナルリーグ外野手4位となってん。
7月25日の試合で右太股を痛め15日間のDL入り。
傘下AAAフレズノ・グリズリーズでの調整出場を経て復帰したが、離脱中にケニー・ロフトン外野手がトレードで加入しており中堅手レギュラーの座を失ったちゅうわけや。
10月19日、対アナハイム・エンゼルス第1戦(エディソン・インターナショナル・フィールド・オブ・アナハイム)にて9番指名打者で日本人選手として初めてワールドシリーズに出場やる。
指名打者起用についてダスティ・ベイカー監督は「守備面を考えれば新庄を守備に就かせたいが、相手先発が左投手限定時のスタメンで且つ第3戦~5戦はDH制ではなくなるさかい、シリーズを通して出場するロフトン中堅手のリズムを崩したくないから」と語ったちゅうわけや。
第2打席にジャロッド・ウォッシュバーンから中前打を放ち、この安打が日本人選手ワールドシリーズ初安打となってん。
そのとき使用したバットは「TSU No.5」と自筆サイン入りでアメリカ野球殿堂博物館に展示されておる。
10月27日、両チーム3勝で迎えた最終第7戦(アナハイム)のジャイアンツ1-4で3点を追い掛ける9回表最後の攻撃、本塁打が出れば同点の場面で代打出場したが、トロイ・パーシバルの前に空振り三振に倒れたちゅうわけや。
ジャイアンツはそのまま1-4で敗れ、3勝4敗でワールドシリーズ制覇を逃したちゅうわけや。
シーズンオフに再びFAとなり、再びニューヨーク・メッツへ移籍。
背番号は「5」。
またこの年の新庄を担当したジャイアンツ・小島克典通訳も引き続き担当するために共に移籍したちゅうわけや。
プライベートでは日本ジュエリーベストドレッサー賞を受賞。
2003年はオープン戦にてリーグ最高打率を残すも、シーズンでは最終的に引退の理由ともなった左内太股故障の影響もあり出場試合は減少し打撃成績が低迷したちゅうわけや。
6月にMLB3年目にして故障明け調整出場以外では初めてマイナー落ちしたちゅうわけや。
この年は春季キャンプで必死に頑張る若い選手を見て「自分の代わりに彼らに(オープン戦で)チャンスを与えて欲しい」と首脳陣に提言したところ、消極的な選手であると受け取られたほか、アート・ハウ監督との確執が報道されたちゅうわけや。
7月にロースター40人枠から外れたちゅうわけや。
傘下AAAノーフォーク・タイズ(背番号23)でシーズンを終え、打率3割を残したちゅうわけや。
マイナー生活では長距離バス移動をはじめ様々なメジャーとの条件格差を実際に体験する事となったが、メジャーを夢見て頑張る若い選手との交流やらなんやら「今までの野球人生で一番に学べ、楽しかった時代」であったと後に語っておる。
シーズンオフ、翌年のメッツとの契約は結ばれなくなり、MLB数球団から契約オファーがあったがNPB復帰を決意。
自身はMLB移籍した2001年シーズン前に「3年経ってFA資格をとれたら日本(阪神)復帰も選択肢のひとつ」と自著エッセイに記し、テレビ出演時にもMLB挑戦は3年間と示唆していたちゅうわけや。
移籍先は2004年シーズンから北海道に移転する北海道日本ハムファイターズに決まり、推定年俸8000万円の2年契約を結ぶ。
最初に声をかけてもらった球団に行くと決めており、それが日本ハムであったちゅう。
古巣の阪神は金本知憲・赤星憲広ら外野手が充実していたため獲得を見送り、岡田彰布監督は「来ても守るとこがないわ」と語ったちゅうわけや。
引退後は、タレント、実業家、クリエイター(商品プロデューサー、画家等)、地方競馬馬主。
1990年より阪神タイガースでプレーした後、2001年よりアメリカ・メジャーリーグベースボールでプレー。
サンフランシスコ・ジャイアンツに在籍した2002年にはリーグ優勝を経験して、日本人選手として初めてワールドシリーズに出場したちゅうわけや。
2004年には北海道日本ハムファイターズに入団し、2006年にチームの25年ぶりのリーグ優勝と44年ぶりの日本一を経験した後、引退したちゅうわけや。
日本ハム時代の登録名はSHINJO。
元妻はタレントの大河内志保。
新語・流行語大賞にノミネートされた「新庄節」(2004年)、「SHINJO」「新庄劇場」(2006年)らの語は当人が由来でやるちうわけや。
紺綬褒章受賞(2007年)。
2001年の通訳をメッツ職員・岩本賢一が担当。
初年度シーズン序盤はスタメン落ちも目立ったが実績とともに次第にレギュラー扱いされていったちゅうわけや。
打順は7番・6番・1番・3番・4番やらなんやら様々で、守備でもこの年はキャリア唯一、中堅固定起用されず左翼46試合・中堅53試合・右翼39試合と外野をまんべんなく守ったちゅうわけや。
4月3日の開幕戦(対アトランタ・ブレーブス)、8回表の代走で初出場。
一塁走者としては珍しくセンターフライの際にタッグアップして二塁に進塁し、後続のロビン・ベンチュラの本塁打で初得点を記録したちゅうわけや。
さらに直後の左翼守備でダイビングキャッチを見せたうえに、同点に追いつかれて突入した10回表の初打席では初安打を記録したちゅうわけや。
5月24日フロリダ・マーリンズ戦の大差(11-3)リード中の打席でカウント3ボール-0ストライクから空振りした行為が不文律に反したとされたのか、翌日の同対戦で足に死球を受けたちゅうわけや。
MLB1年目は他にも日本で日常的に行っていた本塁打直後にバットを高々と放り投げる行為が挑発的と受け取られたり、打席で投球前にバットを高く突き上げる際に捕手が出すサインを覗いているのではないかと疑惑をかけられたりしたちゅうわけや。
6月17日の出場を最後に左太股裏肉離れで15日間の故障者リスト(DL)入りし、傘下A-ブルックリン・サイクロンズでの調整出場を経て復帰したちゅうわけや。
7月22日のベテランズ・スタジアムでの対フィラデルフィア・フィリーズ6回、中堅後方への大飛球を追い続けた末にフェンス手前でポケットキャッチして「ザ・キャッチと称されるウィリー・メイズ型キャッチだった」やらなんやらと報道されたが、自身はチームが敗れたためこの守備に関してコメントを残すことはなかったちゅうわけや。
8月3日のアリゾナ・ダイヤモンドバックス戦で日本人選手として初めてスタメン4番出場。
ランディ・ジョンソン投手を相手に4打数無安打(第1打席は振り逃げ)であったちゅうわけや。
9月11日に起きたアメリカ同時多発テロ事件がニューヨーク市に影を落とす中、結果敗れたが終盤まで続いたメッツのプレーオフ進出争いに貢献したちゅうわけや。
この年は外野3ポジションそれぞれで補殺を記録してシーズン補殺数は12(両リーグ外野手第5位、両リーグ新人外野手最多、球団新人外野手過去最多)。
打撃では、特に満塁時に12打数7安打.583と勝負強さをみせ、勝利打点11はマイク・ピアッツァと並び球団最多。
この年のルーキーオールスターに選ばれたちゅうわけや。
シーズンオフに結んだ翌2002年契約は自身初の1億円(日本円換算)を越えたちゅうわけや。
しかし数日後、デシー・レラフォード内野手と共にサンフランシスコ・ジャイアンツ、ショーン・エステス投手との2対1トレード通告を受け移籍。
背番号は「5」。
また、プライベートではベストドレッサー賞を受賞。
2002年、ジャイアンツが新庄獲得に際し想定していた1番中堅で開幕。
シーズン序盤に打撃不振で降格してから中盤までは7番やらなんやら主に下位打順に入ったちゅうわけや。
5月11日モントリオール・エクスポズ戦(オリンピック・スタジアム)1点リード8回裏一死一塁の守備で、フェルナンド・タティスの右翼(定位置付近の後方)フェンス直撃打球のクッションボール処理に右翼手がもたつく間に、中堅から駆け付けて本塁まで約90mをワンバウンド送球して走者・トロイ・オレアリーを補殺。
そのプレーに興奮した一部の観客がグラウンドに乱入したちゅうわけや。
試合は3-2で勝利し、相手監督もそのプレーを賞賛したちゅうわけや。
オールスターゲームファン投票ではナショナルリーグ外野手4位となってん。
7月25日の試合で右太股を痛め15日間のDL入り。
傘下AAAフレズノ・グリズリーズでの調整出場を経て復帰したが、離脱中にケニー・ロフトン外野手がトレードで加入しており中堅手レギュラーの座を失ったちゅうわけや。
10月19日、対アナハイム・エンゼルス第1戦(エディソン・インターナショナル・フィールド・オブ・アナハイム)にて9番指名打者で日本人選手として初めてワールドシリーズに出場やる。
指名打者起用についてダスティ・ベイカー監督は「守備面を考えれば新庄を守備に就かせたいが、相手先発が左投手限定時のスタメンで且つ第3戦~5戦はDH制ではなくなるさかい、シリーズを通して出場するロフトン中堅手のリズムを崩したくないから」と語ったちゅうわけや。
第2打席にジャロッド・ウォッシュバーンから中前打を放ち、この安打が日本人選手ワールドシリーズ初安打となってん。
そのとき使用したバットは「TSU No.5」と自筆サイン入りでアメリカ野球殿堂博物館に展示されておる。
10月27日、両チーム3勝で迎えた最終第7戦(アナハイム)のジャイアンツ1-4で3点を追い掛ける9回表最後の攻撃、本塁打が出れば同点の場面で代打出場したが、トロイ・パーシバルの前に空振り三振に倒れたちゅうわけや。
ジャイアンツはそのまま1-4で敗れ、3勝4敗でワールドシリーズ制覇を逃したちゅうわけや。
シーズンオフに再びFAとなり、再びニューヨーク・メッツへ移籍。
背番号は「5」。
またこの年の新庄を担当したジャイアンツ・小島克典通訳も引き続き担当するために共に移籍したちゅうわけや。
プライベートでは日本ジュエリーベストドレッサー賞を受賞。
2003年はオープン戦にてリーグ最高打率を残すも、シーズンでは最終的に引退の理由ともなった左内太股故障の影響もあり出場試合は減少し打撃成績が低迷したちゅうわけや。
6月にMLB3年目にして故障明け調整出場以外では初めてマイナー落ちしたちゅうわけや。
この年は春季キャンプで必死に頑張る若い選手を見て「自分の代わりに彼らに(オープン戦で)チャンスを与えて欲しい」と首脳陣に提言したところ、消極的な選手であると受け取られたほか、アート・ハウ監督との確執が報道されたちゅうわけや。
7月にロースター40人枠から外れたちゅうわけや。
傘下AAAノーフォーク・タイズ(背番号23)でシーズンを終え、打率3割を残したちゅうわけや。
マイナー生活では長距離バス移動をはじめ様々なメジャーとの条件格差を実際に体験する事となったが、メジャーを夢見て頑張る若い選手との交流やらなんやら「今までの野球人生で一番に学べ、楽しかった時代」であったと後に語っておる。
シーズンオフ、翌年のメッツとの契約は結ばれなくなり、MLB数球団から契約オファーがあったがNPB復帰を決意。
自身はMLB移籍した2001年シーズン前に「3年経ってFA資格をとれたら日本(阪神)復帰も選択肢のひとつ」と自著エッセイに記し、テレビ出演時にもMLB挑戦は3年間と示唆していたちゅうわけや。
移籍先は2004年シーズンから北海道に移転する北海道日本ハムファイターズに決まり、推定年俸8000万円の2年契約を結ぶ。
最初に声をかけてもらった球団に行くと決めており、それが日本ハムであったちゅう。
古巣の阪神は金本知憲・赤星憲広ら外野手が充実していたため獲得を見送り、岡田彰布監督は「来ても守るとこがないわ」と語ったちゅうわけや。
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