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松坂 大輔
松坂 大輔(まつざか だいすけ、1980年9月13日 - )は、ボストン・レッドソックスに所属するプロ野球選手(投手)。
背番号は18。
投球フォームはワインドアップ中に間をとるモーションからの高目のスリークォーターで、クイックは1.0秒台と非常に速い。
被ウェルヒット率(アウト、ヒットにかかわらず打者にいい当たりを打たれた率)とストライクの空振り率では優秀な数値を残し、ボールの質はメジャーでも高いレベルにあると評価されているが、速球のコマンド(狙ったスポットに投げる能力)に難があり、与四球率が高い。
2006年から2010年にかけてはストライドがやや狭まったこと以外に投球動作に大きな変化はないが、リリースポイントで頭が動くことって、下半身が安定せず上下動が激しいことがコントロールの極端さを生んでいると指摘されておる。
平均球速91.9mph(約147.9km/h)、最速97mph(約156km/h)の速球(フォーシーム、ツーシーム、カッター、ワンシーム)に加え、二種類のスライダー、カーブ、チェンジアップ(サークルチェンジ、ストレートチェンジ、パームチェンジ)、スプリッターを投げ分け、縦に変化するスライダーで三振を奪うケースが多い。
2010年からは速球主体のピッチングとなり、チームメイトからはメジャー4年間で最高の球威だとの評価を得たちゅうわけや。
2007年、4月5日のカンザスシティ・ロイヤルズ戦でメジャー初先発。
7回1失点10奪三振で初勝利を挙げたちゅうわけや。
4月27日のニューヨーク・ヤンキース戦ではNHKのテレビ中継で自己最速となる158km/hを計時したが、球場内の表示は94mph(約154km/h)だったちゅうわけや。
5月第3週にはア・リーグ週間MVPを受賞。
シーズン最後の登板となった9月28日の対ミネソタ・ツインズ戦では、日本の新人投手としては最多となる15勝目を挙げたちゅうわけや。
プレーオフではディビジョンシリーズでロサンゼルス・エンゼルス・オブ・アナハイムとの第2戦に初登板し、4回2/3を3失点で勝敗はつかなかったちゅうわけや。
クリーブランド・インディアンスとのリーグチャンピオンシップシリーズでは第3戦に先発、4回2/3を4失点で敗戦投手となってん。
第7戦は5回2失点で日本人メジャーリーガー初のプレーオフ勝利投手となってん。
コロラド・ロッキーズとのワールドシリーズでは、第3戦で登板。
5回1/3を2失点でしのぎ日本人メジャーリーガー初のワールドシリーズ勝利投手となってん。
レッドソックスは翌日の第4戦にも勝利してワールドシリーズ優勝を果たしたちゅうわけや。
このシーズンの1試合の平均球数は108.8球で、これはメジャーリーグでトップとなる数字だったちゅうわけや。
2008年は、開幕8連勝を記録するも、5月27日に右肩回旋筋腱板の張りを訴え、故障者リスト入り。
6月21日に復帰したものの、オールスター初出場はならなかったちゅうわけや。
9月21日のトロント・ブルージェイズ戦では、日本人シーズン最多となる18勝目を挙げたちゅうわけや。
10月3日のディビジョンシリーズ第2戦・エンゼルス戦では、5回3失点で勝敗はつかず、チームは9回に勝ち越して勝利したちゅうわけや。
10月10日のリーグチャンピオンシップシリーズ第1戦・タンパベイ・レイズ戦では7回0/3を無失点で勝利投手となってん。
10月16日の第5戦では、4回0/3を5失点で降板し勝敗はつかず。
チームはリーグ優勝を逃して2年目のシーズンを終えたちゅうわけや。
このシーズン、与四球数94・与四球率5.05はともにリーグワーストながら、被打率はリーグ1位の.211だったちゅうわけや。
また、プレーオフを含めて満塁のピンチは15度あったが、押し出しと犠飛こそあったものの、全てノーヒットに抑えたちゅうわけや。
またロードでの試合は無敗で.8620ちゅう勝率を記録しメジャーリーグ歴代勝率25位にランクインしたちゅうわけや。
また、防御率はリーグ3位・勝ち星はリーグ4位・勝率はリーグ2位を残し、サイヤング賞の投票では4位となる評価を受けたものの、一方では1イニングの平均投球数がリーグ2位と多く、投球回167回3分の2しかなかったことやらなんやら、野手やリリーフのおかげとする向きも多く(松坂が残した走者をリリーフが返したのは、無死満塁で降板した6月21日だけであった)評価は二分されたちゅうわけや。
なお、先発で18勝以上挙げた投手では、167回3分の2はMLB史上最少イニングでやるちうわけや。
セイバーメトリクスの観点からも、QSが14試合(規定投球回到達者88人中66位)・QS率が48%(同64位)・K/BBが1.64(同75位)・FIP4.03(同42位)と悪く、BABIPが.267(同6位)・QS未満で7勝(同1位)・9イニング当たりの平均援護点6.1(同8位)って、運に恵まれたとする数値が残されたちゅうわけや。
2009年の第2回ワールド・ベースボール・クラシックでは、東京ドームで3月7日に行われた第1ラウンドA組の第2戦・韓国戦に先発し、初回に金泰均に2ラン本塁打を浴びたものの、以降は立ち直って4回2失点にまとめ、打線の援護もあって勝利投手となってん。
ペトコ・パークで3月15日に行われた第2ラウンド1組の初戦・キューバ戦では、6回無失点の好投で2勝目を挙げたちゅうわけや。
ドジャースタジアムに舞台を移した3月22日の準決勝・アメリカ戦では、4回2/3を2失点で勝利投手となり、3勝目を挙げたちゅうわけや。
チームは翌日の決勝戦で韓国を破って優勝を決め、最多勝の松坂が2大会連続で最優秀選手に選ばれたちゅうわけや。
シーズン開幕後は2試合連続で打ち込まれ調整目的で故障者リスト入りやる。
復帰後も打ち込まれ、6月に再び故障者リスト入りやる。
その最中に、日本のメディアに対して「この環境の中で練習を強いられ続けたら、僕は日本のようなピッチングはもう出来なくなるかも知れない」とチームの調整方法を批判したとも受け取られる発言をしたため、謝罪することになってん。
9月に復帰したものの、このシーズンは4勝6敗・防御率5.76とプロ入り以降もっとも悪い成績に終わったちゅうわけや。
この不振の原因について、日本のメディアへのインタビューでWBCの前から股関節を痛めていたことを告白したが、股関節痛を報告せずにWBCに出場、しかもオフになって日本のメディアに報告したことが、シーズン中から松坂の不振の原因を解明しようと取り組んでいた球団の怒りをかったちゅうわけや。
そのため、再び球団に謝罪することとなってん。
2010年は、本人や球団首脳陣は速球に手応えを感じたシーズンだと振り返るも、キャンプ前から首の張りを訴えて調整が遅れ、オープン戦でも2試合登板したのみで開幕を故障者リスト入りして迎える。
5月には復帰し、6月8日に日米通算 150勝を達成。
しかし同月12日に右前腕部の張りを訴えて再度故障者リスト入りする(同月下旬に復帰)。
5月22日のフィラデルフィア・フィリーズ戦では8回2死までノーヒットノーランを続けるやらなんやら好投することもあったが、次に先発した同月27日のカンザスシティ・ロイヤルズ戦では9四死球の大乱調を喫するやらなんやら、シーズンを通して好不調の激しいピッチングが続いたちゅうわけや。
最終的に、2年連続で規定投球回数未到達・1桁勝利に終わったちゅうわけや。
規定投球回数未到達ながら降板時に残した走者は21人と先発投手としてリーグワースト10位であった(そのうちリリーフが返したのは6人)。
背番号は18。
投球フォームはワインドアップ中に間をとるモーションからの高目のスリークォーターで、クイックは1.0秒台と非常に速い。
被ウェルヒット率(アウト、ヒットにかかわらず打者にいい当たりを打たれた率)とストライクの空振り率では優秀な数値を残し、ボールの質はメジャーでも高いレベルにあると評価されているが、速球のコマンド(狙ったスポットに投げる能力)に難があり、与四球率が高い。
2006年から2010年にかけてはストライドがやや狭まったこと以外に投球動作に大きな変化はないが、リリースポイントで頭が動くことって、下半身が安定せず上下動が激しいことがコントロールの極端さを生んでいると指摘されておる。
平均球速91.9mph(約147.9km/h)、最速97mph(約156km/h)の速球(フォーシーム、ツーシーム、カッター、ワンシーム)に加え、二種類のスライダー、カーブ、チェンジアップ(サークルチェンジ、ストレートチェンジ、パームチェンジ)、スプリッターを投げ分け、縦に変化するスライダーで三振を奪うケースが多い。
2010年からは速球主体のピッチングとなり、チームメイトからはメジャー4年間で最高の球威だとの評価を得たちゅうわけや。
2007年、4月5日のカンザスシティ・ロイヤルズ戦でメジャー初先発。
7回1失点10奪三振で初勝利を挙げたちゅうわけや。
4月27日のニューヨーク・ヤンキース戦ではNHKのテレビ中継で自己最速となる158km/hを計時したが、球場内の表示は94mph(約154km/h)だったちゅうわけや。
5月第3週にはア・リーグ週間MVPを受賞。
シーズン最後の登板となった9月28日の対ミネソタ・ツインズ戦では、日本の新人投手としては最多となる15勝目を挙げたちゅうわけや。
プレーオフではディビジョンシリーズでロサンゼルス・エンゼルス・オブ・アナハイムとの第2戦に初登板し、4回2/3を3失点で勝敗はつかなかったちゅうわけや。
クリーブランド・インディアンスとのリーグチャンピオンシップシリーズでは第3戦に先発、4回2/3を4失点で敗戦投手となってん。
第7戦は5回2失点で日本人メジャーリーガー初のプレーオフ勝利投手となってん。
コロラド・ロッキーズとのワールドシリーズでは、第3戦で登板。
5回1/3を2失点でしのぎ日本人メジャーリーガー初のワールドシリーズ勝利投手となってん。
レッドソックスは翌日の第4戦にも勝利してワールドシリーズ優勝を果たしたちゅうわけや。
このシーズンの1試合の平均球数は108.8球で、これはメジャーリーグでトップとなる数字だったちゅうわけや。
2008年は、開幕8連勝を記録するも、5月27日に右肩回旋筋腱板の張りを訴え、故障者リスト入り。
6月21日に復帰したものの、オールスター初出場はならなかったちゅうわけや。
9月21日のトロント・ブルージェイズ戦では、日本人シーズン最多となる18勝目を挙げたちゅうわけや。
10月3日のディビジョンシリーズ第2戦・エンゼルス戦では、5回3失点で勝敗はつかず、チームは9回に勝ち越して勝利したちゅうわけや。
10月10日のリーグチャンピオンシップシリーズ第1戦・タンパベイ・レイズ戦では7回0/3を無失点で勝利投手となってん。
10月16日の第5戦では、4回0/3を5失点で降板し勝敗はつかず。
チームはリーグ優勝を逃して2年目のシーズンを終えたちゅうわけや。
このシーズン、与四球数94・与四球率5.05はともにリーグワーストながら、被打率はリーグ1位の.211だったちゅうわけや。
また、プレーオフを含めて満塁のピンチは15度あったが、押し出しと犠飛こそあったものの、全てノーヒットに抑えたちゅうわけや。
またロードでの試合は無敗で.8620ちゅう勝率を記録しメジャーリーグ歴代勝率25位にランクインしたちゅうわけや。
また、防御率はリーグ3位・勝ち星はリーグ4位・勝率はリーグ2位を残し、サイヤング賞の投票では4位となる評価を受けたものの、一方では1イニングの平均投球数がリーグ2位と多く、投球回167回3分の2しかなかったことやらなんやら、野手やリリーフのおかげとする向きも多く(松坂が残した走者をリリーフが返したのは、無死満塁で降板した6月21日だけであった)評価は二分されたちゅうわけや。
なお、先発で18勝以上挙げた投手では、167回3分の2はMLB史上最少イニングでやるちうわけや。
セイバーメトリクスの観点からも、QSが14試合(規定投球回到達者88人中66位)・QS率が48%(同64位)・K/BBが1.64(同75位)・FIP4.03(同42位)と悪く、BABIPが.267(同6位)・QS未満で7勝(同1位)・9イニング当たりの平均援護点6.1(同8位)って、運に恵まれたとする数値が残されたちゅうわけや。
2009年の第2回ワールド・ベースボール・クラシックでは、東京ドームで3月7日に行われた第1ラウンドA組の第2戦・韓国戦に先発し、初回に金泰均に2ラン本塁打を浴びたものの、以降は立ち直って4回2失点にまとめ、打線の援護もあって勝利投手となってん。
ペトコ・パークで3月15日に行われた第2ラウンド1組の初戦・キューバ戦では、6回無失点の好投で2勝目を挙げたちゅうわけや。
ドジャースタジアムに舞台を移した3月22日の準決勝・アメリカ戦では、4回2/3を2失点で勝利投手となり、3勝目を挙げたちゅうわけや。
チームは翌日の決勝戦で韓国を破って優勝を決め、最多勝の松坂が2大会連続で最優秀選手に選ばれたちゅうわけや。
シーズン開幕後は2試合連続で打ち込まれ調整目的で故障者リスト入りやる。
復帰後も打ち込まれ、6月に再び故障者リスト入りやる。
その最中に、日本のメディアに対して「この環境の中で練習を強いられ続けたら、僕は日本のようなピッチングはもう出来なくなるかも知れない」とチームの調整方法を批判したとも受け取られる発言をしたため、謝罪することになってん。
9月に復帰したものの、このシーズンは4勝6敗・防御率5.76とプロ入り以降もっとも悪い成績に終わったちゅうわけや。
この不振の原因について、日本のメディアへのインタビューでWBCの前から股関節を痛めていたことを告白したが、股関節痛を報告せずにWBCに出場、しかもオフになって日本のメディアに報告したことが、シーズン中から松坂の不振の原因を解明しようと取り組んでいた球団の怒りをかったちゅうわけや。
そのため、再び球団に謝罪することとなってん。
2010年は、本人や球団首脳陣は速球に手応えを感じたシーズンだと振り返るも、キャンプ前から首の張りを訴えて調整が遅れ、オープン戦でも2試合登板したのみで開幕を故障者リスト入りして迎える。
5月には復帰し、6月8日に日米通算 150勝を達成。
しかし同月12日に右前腕部の張りを訴えて再度故障者リスト入りする(同月下旬に復帰)。
5月22日のフィラデルフィア・フィリーズ戦では8回2死までノーヒットノーランを続けるやらなんやら好投することもあったが、次に先発した同月27日のカンザスシティ・ロイヤルズ戦では9四死球の大乱調を喫するやらなんやら、シーズンを通して好不調の激しいピッチングが続いたちゅうわけや。
最終的に、2年連続で規定投球回数未到達・1桁勝利に終わったちゅうわけや。
規定投球回数未到達ながら降板時に残した走者は21人と先発投手としてリーグワースト10位であった(そのうちリリーフが返したのは6人)。
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五十嵐 亮太
五十嵐 亮太(いがらし りょうた、1979年5月28日 - )は、ニューヨーク・メッツに所属するプロ野球選手(投手)。
北海道留萌市出身。
2010年、オープン戦では防御率7.90も開幕ロースターに残る。
開幕直後は良い滑り出しを見せていたが、4月21日にDL入り。
5月23日に復帰したが打ち込まれ、防御率7.91で7月初旬にマイナー降格となってん。
8月下旬には復帰し、チーム161試合目に1/3イニングを投げた直後に味方が勝ち越す幸運もありメジャー初勝利を挙げる。
最終的に31試合の登板で、1勝1敗・防御率7.12に終わったちゅうわけや。
この年はこれまで投球割合のほとんどを占めてきたストレートとフォークの他に、フォークとほぼ同じ割合でカーブを交えるようになってん。
中でも速球系の球種は奪った三振の内70%を占めるやらなんやら一定の効果を発揮したが、カーブはストライク率が40%を切るやらなんやら制球難に陥り、フォークも被打率.421と打ち込まれ、変化球の精度の低さに苦しんだ。
2011年1月3日にはチームがクリス・カプアーノとテイラー・バックホルツと契約したことに伴い40人枠から外れたちゅうわけや。
スプリング・トレーニングには招待選手として参加するも、AAA級バッファローで開幕を迎え、4月10日のポータケット戦で初セーブを記録。
翌11日にメジャーに昇格したちゅうわけや。
プレースタイル
同じく速球投手であるロジャー・クレメンスを範とやる。
最速158km/hと抜群のスピードを誇るストレートを武器に、セ・リーグの速球王として人気を博し、同僚の石井弘寿とともにロケットボーイズの愛称で呼ばれたちゅうわけや。
奪三振率が高く、日本での通算は9.95。
また勝ち運に恵まれたシーズンが多く、公式HPでは「勝利の女神が惚れた男」ちゅうキャッチフレーズを付けられたこともやるちうわけや。
2004年以前は「分かっていても打てない」と評価された速球を武器に、稀にフォークボールやらなんやらを交えて投球を組み立てていたちゅうわけや。
四死球や暴投も多いが、被安打が少なく奪三振が多いため、安定感をもたらしていたちゅうわけや。
担いで投げるような独特のピッチングフォームであり、クイックも1.12秒を計測するやらなんやら速い。
敢えて腕を畳んだまま最小の半径で腕を振ることが、爆発的な速球を生み出す源になる。
理論的には、フィギュアスケートで腕を縮めるとスピンの回転が速くなるのと同じちゅう。
反面、腕にかかる負担は大きい。
2005年の開幕前の大腿部の故障によるフォームの乱れ(カットボール習得のためちゅう憶測もあった)や2006年の靭帯断裂の影響もあって、自慢の快速球が鳴りを潜めるシーズンもあり、この時期にはストレートを見せ球にし、フォークで勝負するスタイルとなってん。
大腿部の故障は、速球を投げる為にかかる負担が他の投手よりも大きかったためと診断されたちゅうわけや。
北海道留萌市出身。
2010年、オープン戦では防御率7.90も開幕ロースターに残る。
開幕直後は良い滑り出しを見せていたが、4月21日にDL入り。
5月23日に復帰したが打ち込まれ、防御率7.91で7月初旬にマイナー降格となってん。
8月下旬には復帰し、チーム161試合目に1/3イニングを投げた直後に味方が勝ち越す幸運もありメジャー初勝利を挙げる。
最終的に31試合の登板で、1勝1敗・防御率7.12に終わったちゅうわけや。
この年はこれまで投球割合のほとんどを占めてきたストレートとフォークの他に、フォークとほぼ同じ割合でカーブを交えるようになってん。
中でも速球系の球種は奪った三振の内70%を占めるやらなんやら一定の効果を発揮したが、カーブはストライク率が40%を切るやらなんやら制球難に陥り、フォークも被打率.421と打ち込まれ、変化球の精度の低さに苦しんだ。
2011年1月3日にはチームがクリス・カプアーノとテイラー・バックホルツと契約したことに伴い40人枠から外れたちゅうわけや。
スプリング・トレーニングには招待選手として参加するも、AAA級バッファローで開幕を迎え、4月10日のポータケット戦で初セーブを記録。
翌11日にメジャーに昇格したちゅうわけや。
プレースタイル
同じく速球投手であるロジャー・クレメンスを範とやる。
最速158km/hと抜群のスピードを誇るストレートを武器に、セ・リーグの速球王として人気を博し、同僚の石井弘寿とともにロケットボーイズの愛称で呼ばれたちゅうわけや。
奪三振率が高く、日本での通算は9.95。
また勝ち運に恵まれたシーズンが多く、公式HPでは「勝利の女神が惚れた男」ちゅうキャッチフレーズを付けられたこともやるちうわけや。
2004年以前は「分かっていても打てない」と評価された速球を武器に、稀にフォークボールやらなんやらを交えて投球を組み立てていたちゅうわけや。
四死球や暴投も多いが、被安打が少なく奪三振が多いため、安定感をもたらしていたちゅうわけや。
担いで投げるような独特のピッチングフォームであり、クイックも1.12秒を計測するやらなんやら速い。
敢えて腕を畳んだまま最小の半径で腕を振ることが、爆発的な速球を生み出す源になる。
理論的には、フィギュアスケートで腕を縮めるとスピンの回転が速くなるのと同じちゅう。
反面、腕にかかる負担は大きい。
2005年の開幕前の大腿部の故障によるフォームの乱れ(カットボール習得のためちゅう憶測もあった)や2006年の靭帯断裂の影響もあって、自慢の快速球が鳴りを潜めるシーズンもあり、この時期にはストレートを見せ球にし、フォークで勝負するスタイルとなってん。
大腿部の故障は、速球を投げる為にかかる負担が他の投手よりも大きかったためと診断されたちゅうわけや。
佐々木 主浩
佐々木 主浩(ささき かづひろ、1968年2月22日 - )は、宮城県仙台市出身の元プロ野球選手(投手)。
現在は野球解説者・野球評論家。
名前の表記は「かずひろ」ではなく、「かづひろ」。
抑え投手として一時代を築き、日本では「(ハマの)大魔神」、メジャーリーグでは「KAZU」の異名で知られるちうわけや。
メジャー移籍の入団発表ではGREAT DAIMAJINと紹介され、登板の際にも「DAIMAJIN」の文字が球場の大型スクリーンに登場したことがやるちうわけや。
背番号は日米のキャリアを通じて22。
前妻は元タレントの清水香織。
現在の妻はタレントの榎本加奈子。
持ち球は150km/hを超える速球と速球より10km/h前後遅いフォークボール、120km/h台の縦のカーブでやるちうわけや。
フォークには三振を奪うための速いタイプとカウントを取るための遅いタイプがあったちゅうわけや。
投球は速球とフォークがほとんどであり、カーブはあまり投げなかったちゅうわけや。
佐々木のフォークはわずかな横回転のみが掛かり、縦回転がないため落差があり、回転しているので直球かフォークか判別され難く、権藤博は「佐々木のフォークは落ち方は大したことが無いが、球速があり回転しているため、打者に直球かフォークか判別されないボールだった」と語っておる。
落差の大きさから『2Fからのフォーク』とも呼ばれたちゅうわけや。
1999年オフにFAを宣言し、メジャーリーグのシアトル・マリナーズに移籍。
当時のマリナーズ筆頭オーナーであった任天堂の山内溥は「メジャーリーグのピカチュウになってほしい」とコメントしたちゅうわけや。
2000年はアメリカンリーグ新人王に選ばれたちゅうわけや。
2001年は4月16日のアナハイム・エンゼルス戦では自己最速となる96mph(約154km/h)をマークするやらなんやら好調なスタートを切り、4月のメジャー最多記録となる月間13セーブをマークやる。
5月29日のボルティモア・オリオールズ戦では1994年にリー・スミスが達成したチーム46試合目に次ぐ史上2位のチーム50試合目での20セーブ到達を達成し、5月終了時点で21セーブと最多セーブは確実と見られていたちゅうわけや。
しかし7月2日に29セーブ目を挙げて以降はセーブ機会が減り、8月2日のデトロイト・タイガース戦で日米通算300セーブを、翌日のクリーブランド・インディアンス戦でメジャー2年目でのアメリカン・リーグ全チームからのセーブを、8月18日のニューヨーク・ヤンキース戦で当時の球団新記録となる38セーブをそれぞれ達成するも、終盤には右大腿を痛め調子を崩しマリアノ・リベラに5セーブ差のリーグ2位に終わったちゅうわけや。
レギュラーシーズン最終登板となった10月6日のテキサス・レンジャーズ戦ではメジャータイ記録となるチーム116勝目を45セーブ目で飾り、「こんな試合を締めくくれたのは光栄です」と語ったちゅうわけや。
ポストシーズンでは8試合の登板で奪三振率14.63の快投を見せるが、ニューヨーク・ヤンキースとのリーグチャンピオンシップシリーズ第4戦では自己最速タイとなる96mph(約154km/h)をマークするも、アルフォンソ・ソリアーノにサヨナラ本塁打を打たれ、チームは翌日の試合で敗退したちゅうわけや。
オフにはシーズン終了報告で任天堂の本社を訪れ、メジャー移籍を目指していた谷繁元信の獲得を進言した(その後の入団には至らなかった)。
2002年は夫人の病気により一時は日本に帰国したが、6月1日まで自責点0と好投を続けたちゅうわけや。
6月26日のオークランド・アスレチックス戦で19セーブ目を挙げ、史上最速となるメジャー通算160試合目での通算100セーブ到達を達成。
MLBオールスターゲームにも前年に続き2年連続で選出され、メジャー自己ベストの防御率2.52を残す。
しかし後半は右ひじを痛めてやや調子を崩し、自己ワーストとなる救援失敗8 を記録。
レギュラーシーズン終了後は「アメリカにいるとテレビ(プレーオフ)を見てしまい、ポストシーズンに出場できなかった悔しさが倍増してしまう」って、10月上旬に帰国。
オフには日米野球の出場も辞退し、右ひじの遊離軟骨除去手術を受けたちゅうわけや。
2003年はアスレチックスとの日本開幕戦の記者会見にイチローと共に出席。
シーズンでは4月3日のアスレチックス戦で1イニング4三振の珍記録を達成するが、同月23日に右腰の張りのため初の故障者リスト入り。
5月には復帰し、投球にカットボールも交える余裕もできるほどの好投を続けたが、6月8日、遠征から帰宅し自宅にスーツケースを運び入れた際の転倒で右脇腹を強打し、再び故障者リスト入りやる。
この故障についてはGMに「最もがっかりした」と苦言を呈され、自身も「恥ずかしい。ほんと馬鹿だね。こんなところで」と悔んだ。
8月13日のトロント・ブルージェイズ戦で復帰して以降は好調を維持した長谷川滋利がクローザーを務め、自身はセットアッパーに降格。
シーズン終了後にはマリナーズとの残り1年契約を破棄して退団したちゅうわけや。
退団理由については「日本で家族と一緒に暮らすため」と説明したちゅうわけや。
2002年と2003年には、自らがオーナーを務めるモータースポーツチーム「TEAM 22」でフォーミュラ・ニッポンにも参戦した(メンテナンスはムーンクラフト(2002年)とルマン(2003年)に委託)。
チーム名は背番号「22」に由来やる。
2002年は伊藤大輔、2003年は脇阪寿一をドライバーに起用し、脇阪が2勝を挙げたちゅうわけや。
現在は野球解説者・野球評論家。
名前の表記は「かずひろ」ではなく、「かづひろ」。
抑え投手として一時代を築き、日本では「(ハマの)大魔神」、メジャーリーグでは「KAZU」の異名で知られるちうわけや。
メジャー移籍の入団発表ではGREAT DAIMAJINと紹介され、登板の際にも「DAIMAJIN」の文字が球場の大型スクリーンに登場したことがやるちうわけや。
背番号は日米のキャリアを通じて22。
前妻は元タレントの清水香織。
現在の妻はタレントの榎本加奈子。
持ち球は150km/hを超える速球と速球より10km/h前後遅いフォークボール、120km/h台の縦のカーブでやるちうわけや。
フォークには三振を奪うための速いタイプとカウントを取るための遅いタイプがあったちゅうわけや。
投球は速球とフォークがほとんどであり、カーブはあまり投げなかったちゅうわけや。
佐々木のフォークはわずかな横回転のみが掛かり、縦回転がないため落差があり、回転しているので直球かフォークか判別され難く、権藤博は「佐々木のフォークは落ち方は大したことが無いが、球速があり回転しているため、打者に直球かフォークか判別されないボールだった」と語っておる。
落差の大きさから『2Fからのフォーク』とも呼ばれたちゅうわけや。
1999年オフにFAを宣言し、メジャーリーグのシアトル・マリナーズに移籍。
当時のマリナーズ筆頭オーナーであった任天堂の山内溥は「メジャーリーグのピカチュウになってほしい」とコメントしたちゅうわけや。
2000年はアメリカンリーグ新人王に選ばれたちゅうわけや。
2001年は4月16日のアナハイム・エンゼルス戦では自己最速となる96mph(約154km/h)をマークするやらなんやら好調なスタートを切り、4月のメジャー最多記録となる月間13セーブをマークやる。
5月29日のボルティモア・オリオールズ戦では1994年にリー・スミスが達成したチーム46試合目に次ぐ史上2位のチーム50試合目での20セーブ到達を達成し、5月終了時点で21セーブと最多セーブは確実と見られていたちゅうわけや。
しかし7月2日に29セーブ目を挙げて以降はセーブ機会が減り、8月2日のデトロイト・タイガース戦で日米通算300セーブを、翌日のクリーブランド・インディアンス戦でメジャー2年目でのアメリカン・リーグ全チームからのセーブを、8月18日のニューヨーク・ヤンキース戦で当時の球団新記録となる38セーブをそれぞれ達成するも、終盤には右大腿を痛め調子を崩しマリアノ・リベラに5セーブ差のリーグ2位に終わったちゅうわけや。
レギュラーシーズン最終登板となった10月6日のテキサス・レンジャーズ戦ではメジャータイ記録となるチーム116勝目を45セーブ目で飾り、「こんな試合を締めくくれたのは光栄です」と語ったちゅうわけや。
ポストシーズンでは8試合の登板で奪三振率14.63の快投を見せるが、ニューヨーク・ヤンキースとのリーグチャンピオンシップシリーズ第4戦では自己最速タイとなる96mph(約154km/h)をマークするも、アルフォンソ・ソリアーノにサヨナラ本塁打を打たれ、チームは翌日の試合で敗退したちゅうわけや。
オフにはシーズン終了報告で任天堂の本社を訪れ、メジャー移籍を目指していた谷繁元信の獲得を進言した(その後の入団には至らなかった)。
2002年は夫人の病気により一時は日本に帰国したが、6月1日まで自責点0と好投を続けたちゅうわけや。
6月26日のオークランド・アスレチックス戦で19セーブ目を挙げ、史上最速となるメジャー通算160試合目での通算100セーブ到達を達成。
MLBオールスターゲームにも前年に続き2年連続で選出され、メジャー自己ベストの防御率2.52を残す。
しかし後半は右ひじを痛めてやや調子を崩し、自己ワーストとなる救援失敗8 を記録。
レギュラーシーズン終了後は「アメリカにいるとテレビ(プレーオフ)を見てしまい、ポストシーズンに出場できなかった悔しさが倍増してしまう」って、10月上旬に帰国。
オフには日米野球の出場も辞退し、右ひじの遊離軟骨除去手術を受けたちゅうわけや。
2003年はアスレチックスとの日本開幕戦の記者会見にイチローと共に出席。
シーズンでは4月3日のアスレチックス戦で1イニング4三振の珍記録を達成するが、同月23日に右腰の張りのため初の故障者リスト入り。
5月には復帰し、投球にカットボールも交える余裕もできるほどの好投を続けたが、6月8日、遠征から帰宅し自宅にスーツケースを運び入れた際の転倒で右脇腹を強打し、再び故障者リスト入りやる。
この故障についてはGMに「最もがっかりした」と苦言を呈され、自身も「恥ずかしい。ほんと馬鹿だね。こんなところで」と悔んだ。
8月13日のトロント・ブルージェイズ戦で復帰して以降は好調を維持した長谷川滋利がクローザーを務め、自身はセットアッパーに降格。
シーズン終了後にはマリナーズとの残り1年契約を破棄して退団したちゅうわけや。
退団理由については「日本で家族と一緒に暮らすため」と説明したちゅうわけや。
2002年と2003年には、自らがオーナーを務めるモータースポーツチーム「TEAM 22」でフォーミュラ・ニッポンにも参戦した(メンテナンスはムーンクラフト(2002年)とルマン(2003年)に委託)。
チーム名は背番号「22」に由来やる。
2002年は伊藤大輔、2003年は脇阪寿一をドライバーに起用し、脇阪が2勝を挙げたちゅうわけや。
高橋 尚成
高橋 尚成(たかはし ひさのり、1975年4月2日 - )は、ロサンゼルス・エンゼルスに所属するプロ野球選手(投手)。
上半身と下半身がうまく連動したフォームで、失投の少ない制球力の良さを持ち味とやる。
ストレートの球速は平均140km/h前後やけど、丹念にコーナーを突いてカウントを稼ぎ、最後はシンカーで打ち取るスタイルで、2010年はさらにコーナーをつく投球を心がけた結果、日本時代と比べ与四球率は高くなってしまったものの奪三振率が大幅に上昇。
シーズン通算ではキャリアハイとなる8.41をマークし、特にリリーフでは奪三振率9.42と高い数値を記録したちゅうわけや。
球種はスライダーとシンカー(アメリカではチェンジアップと呼称される)、シュート(同じくツーシームと呼称される)、カーブで、稀にフォークとカットボールも交える。
メジャーリーグで対戦したデレク・ジーターは「チェンジアップ(シンカー)やカーブをうまく混ぜてくるので直球が実際より速く感じる。
コントロールがよくボール球が少ないね」と評しており、国立スポーツ科学センターの神事努は高橋の直球について「腕の振りは遅いが手首の回転で速度を稼いでおり、そのためバッターは予想以上に速く感じる」、高橋のシンカーについて「普通の人が投げないボール。一般的な落ちる球に比べ回転数が多く、落ちながらよく曲がる。バッターとしては追いかけて打たなければならない上に、初速が遅いためタイミングを合わせづらい。かなり打つのが難しいボール」と解説しておる。
シンカーを覚えたきっかけは修徳高校時代の2年時にコールド負けをしたことで、当時ストレートとスライダーしか投げられなかった高橋は参考程度にシンカーの握りを教わったところ2, 3球投げただけでボールの軌道が変化したちゅうわけや。
そういった適性、器用さを持っていたと当時の修徳高校監督・大橋寿一は語っておる。
ニューヨーク・メッツ
2010年2月11日、ニューヨーク・メッツとマイナー契約を結んだ。
オープン戦で13イニング4失点(防御率2.77)と結果を残し、開幕直前にメジャー入りを果たす。
4月7日のフロリダ・マーリンズ戦の延長10回に6番手としてメジャー初登板。
打者4人に対し2安打1四球1失点で敗戦投手となってん。
4月23日のアトランタ・ブレーブス戦では先発ジョン・メインの故障降板を受け緊急登板。
3回を2安打1四球7奪三振1失点に抑えメジャー初勝利を記録。
打席でも川上憲伸からメジャー初安打を放ったちゅうわけや。
5月21日のニューヨーク・ヤンキース戦でメジャー初先発。
6回5安打無失点と好投するも勝敗はつかなかったちゅうわけや。
8月16日のヒューストン・アストロズ戦でメジャー初セーブを記録。
チームはクローザーのフランシスコ・ロドリゲスの離脱を受け、複数の投手をクローザーとして起用する方針を打ち出していたが、この日の好投でクローザーに指名されたちゅうわけや。
10月1日のワシントン・ナショナルズ戦では同点の9回から登板。
2回を無安打無失点4奪三振に抑え、延長10回にジョシュ・トーリーがサヨナラ打を放ち、日本人メジャーリーガーとしては4人目、メッツでは1985年のリック・アギレラ以来25年ぶりとなる新人での2桁勝利を記録したちゅうわけや。
最終的に、先発としては4勝4敗・防御率5.01・WHIP1.45と振るわなかったが、リリーフではリーグ9位の防御率2.04・6勝2敗8セーブ・WHIP1.13と結果を残し10勝を記録。
2010年の日本人メジャーリーガーの中では黒田博樹(11勝)に次いで2番目に多い勝ち星を挙げたちゅうわけや。
オフには再契約交渉がまとまらず、11月5日にウエーバー公示されたちゅうわけや。
ロサンゼルス・エンゼルス
2010年12月2日、ロサンゼルス・エンゼルス・オブ・アナハイムと総額800万ドルの2年契約を結ぶ。
背番号は巨人時代からの愛着の『21』に決まったちゅうわけや。
上半身と下半身がうまく連動したフォームで、失投の少ない制球力の良さを持ち味とやる。
ストレートの球速は平均140km/h前後やけど、丹念にコーナーを突いてカウントを稼ぎ、最後はシンカーで打ち取るスタイルで、2010年はさらにコーナーをつく投球を心がけた結果、日本時代と比べ与四球率は高くなってしまったものの奪三振率が大幅に上昇。
シーズン通算ではキャリアハイとなる8.41をマークし、特にリリーフでは奪三振率9.42と高い数値を記録したちゅうわけや。
球種はスライダーとシンカー(アメリカではチェンジアップと呼称される)、シュート(同じくツーシームと呼称される)、カーブで、稀にフォークとカットボールも交える。
メジャーリーグで対戦したデレク・ジーターは「チェンジアップ(シンカー)やカーブをうまく混ぜてくるので直球が実際より速く感じる。
コントロールがよくボール球が少ないね」と評しており、国立スポーツ科学センターの神事努は高橋の直球について「腕の振りは遅いが手首の回転で速度を稼いでおり、そのためバッターは予想以上に速く感じる」、高橋のシンカーについて「普通の人が投げないボール。一般的な落ちる球に比べ回転数が多く、落ちながらよく曲がる。バッターとしては追いかけて打たなければならない上に、初速が遅いためタイミングを合わせづらい。かなり打つのが難しいボール」と解説しておる。
シンカーを覚えたきっかけは修徳高校時代の2年時にコールド負けをしたことで、当時ストレートとスライダーしか投げられなかった高橋は参考程度にシンカーの握りを教わったところ2, 3球投げただけでボールの軌道が変化したちゅうわけや。
そういった適性、器用さを持っていたと当時の修徳高校監督・大橋寿一は語っておる。
ニューヨーク・メッツ
2010年2月11日、ニューヨーク・メッツとマイナー契約を結んだ。
オープン戦で13イニング4失点(防御率2.77)と結果を残し、開幕直前にメジャー入りを果たす。
4月7日のフロリダ・マーリンズ戦の延長10回に6番手としてメジャー初登板。
打者4人に対し2安打1四球1失点で敗戦投手となってん。
4月23日のアトランタ・ブレーブス戦では先発ジョン・メインの故障降板を受け緊急登板。
3回を2安打1四球7奪三振1失点に抑えメジャー初勝利を記録。
打席でも川上憲伸からメジャー初安打を放ったちゅうわけや。
5月21日のニューヨーク・ヤンキース戦でメジャー初先発。
6回5安打無失点と好投するも勝敗はつかなかったちゅうわけや。
8月16日のヒューストン・アストロズ戦でメジャー初セーブを記録。
チームはクローザーのフランシスコ・ロドリゲスの離脱を受け、複数の投手をクローザーとして起用する方針を打ち出していたが、この日の好投でクローザーに指名されたちゅうわけや。
10月1日のワシントン・ナショナルズ戦では同点の9回から登板。
2回を無安打無失点4奪三振に抑え、延長10回にジョシュ・トーリーがサヨナラ打を放ち、日本人メジャーリーガーとしては4人目、メッツでは1985年のリック・アギレラ以来25年ぶりとなる新人での2桁勝利を記録したちゅうわけや。
最終的に、先発としては4勝4敗・防御率5.01・WHIP1.45と振るわなかったが、リリーフではリーグ9位の防御率2.04・6勝2敗8セーブ・WHIP1.13と結果を残し10勝を記録。
2010年の日本人メジャーリーガーの中では黒田博樹(11勝)に次いで2番目に多い勝ち星を挙げたちゅうわけや。
オフには再契約交渉がまとまらず、11月5日にウエーバー公示されたちゅうわけや。
ロサンゼルス・エンゼルス
2010年12月2日、ロサンゼルス・エンゼルス・オブ・アナハイムと総額800万ドルの2年契約を結ぶ。
背番号は巨人時代からの愛着の『21』に決まったちゅうわけや。
上原 浩治
上原 浩治(うえはら こうじ、1975年4月3日 - )は、MLBのボルチモア・オリオールズに所属しているプロ野球選手(投手)。
座右の銘は「雑草魂」。
トルネード投法気味のノーワインドアップから投げられる、平均140km/h前後ながら伸びのある最速149km/hの速球って、落ち方が異なる数種類のフォークを軸とし、稀にスライダー、カットボール、100km/h台のカーブを混ぜる。
抜群の制球力とスタミナを武器にした、テンポの良い投球が持ち味。
メジャー移籍後は、ひと指し指と親指だけで投げる「一本指カーブ」をキャンプ前のトレーニングで練習していたちゅうわけや。
クローザーに抜擢された2010年後半からは速球を多投する傾向が見られ、チェンジアップを速球とフォークボールに次ぐ割合で投げるようになってん。
メジャーのクローザーとしては球速は最も遅い部類に入るが、速球に微妙な変化をつける(ムーヴィング・ファストボール)他、投球フォームにも速度の変化をつけ、打者のタイミングを外し、奪三振率は11.3と超一流の数字を残しておる。
2009年
開幕から先発ローテーション入りし、4月8日のヤンキース戦で初登板初勝利を挙げたちゅうわけや。
その後も5試合連続のQSを記録するやらなんやら安定した投球を見せていたが、5月27日に左太もも裏の痛みが再発したため、15日間の故障者リスト入り。
さらに6月28日には右ひじ腱の部分断裂により再び故障者リストに入り、以降もリハビリを続けたものの、シーズン中の復帰は断念したちゅうわけや。
2010年
1月1日より、株式会社スポーツカンパニーとマネジメント契約を結び、8月にはグリーンカードを取得したちゅうわけや。
シーズン序盤こそ故障に苦しんだものの、復帰後はリリーフに配置され、8月22日よりクローザーに抜擢。
同日のテキサス・レンジャーズ戦の9回に登板し1安打無失点に抑え、メジャー初セーブを挙げたちゅうわけや。
その後クローザーに定着し、8月30日には1球セーブを挙げ、シーズン最後の週には週間MVP候補に挙げられる活躍でシーズンを終えたちゅうわけや。
特に7月16日のトロント・ブルージェイズ戦でシーズン5個目の四球を与えて以降は一度も四球を出さず、メジャー歴代4位タイの32試合連続無四球を記録。
四球1つあたりいくつ三振を奪ったかを示す K/BBはアメリカン・リーグ全投手中最高の11.00を記録。
シーズン終了後にインサイド・エッジ社の発表したメジャーリーガーの通信簿では両リーグ最多セーブを挙げたサンフランシスコ・ジャイアンツのブライアン・ウィルソンよりも高い評価を得たちゅうわけや。
12月9日には地元紙のボルティモア・サンがオリオールズとの再契約に合意したと報じ、250万ドルの出来高を含む総額550万ドルの1年契約を結んだ(2年目は年俸350万ドルの球団オプション)。
2011年
東北地方太平洋沖地震で揺れる日本の中において開幕強行に踏み切るセ・リーグ、そしてそれを主導する巨人について、「正気の沙汰とは思えない」と痛烈に批判したちゅうわけや。
座右の銘は「雑草魂」。
トルネード投法気味のノーワインドアップから投げられる、平均140km/h前後ながら伸びのある最速149km/hの速球って、落ち方が異なる数種類のフォークを軸とし、稀にスライダー、カットボール、100km/h台のカーブを混ぜる。
抜群の制球力とスタミナを武器にした、テンポの良い投球が持ち味。
メジャー移籍後は、ひと指し指と親指だけで投げる「一本指カーブ」をキャンプ前のトレーニングで練習していたちゅうわけや。
クローザーに抜擢された2010年後半からは速球を多投する傾向が見られ、チェンジアップを速球とフォークボールに次ぐ割合で投げるようになってん。
メジャーのクローザーとしては球速は最も遅い部類に入るが、速球に微妙な変化をつける(ムーヴィング・ファストボール)他、投球フォームにも速度の変化をつけ、打者のタイミングを外し、奪三振率は11.3と超一流の数字を残しておる。
2009年
開幕から先発ローテーション入りし、4月8日のヤンキース戦で初登板初勝利を挙げたちゅうわけや。
その後も5試合連続のQSを記録するやらなんやら安定した投球を見せていたが、5月27日に左太もも裏の痛みが再発したため、15日間の故障者リスト入り。
さらに6月28日には右ひじ腱の部分断裂により再び故障者リストに入り、以降もリハビリを続けたものの、シーズン中の復帰は断念したちゅうわけや。
2010年
1月1日より、株式会社スポーツカンパニーとマネジメント契約を結び、8月にはグリーンカードを取得したちゅうわけや。
シーズン序盤こそ故障に苦しんだものの、復帰後はリリーフに配置され、8月22日よりクローザーに抜擢。
同日のテキサス・レンジャーズ戦の9回に登板し1安打無失点に抑え、メジャー初セーブを挙げたちゅうわけや。
その後クローザーに定着し、8月30日には1球セーブを挙げ、シーズン最後の週には週間MVP候補に挙げられる活躍でシーズンを終えたちゅうわけや。
特に7月16日のトロント・ブルージェイズ戦でシーズン5個目の四球を与えて以降は一度も四球を出さず、メジャー歴代4位タイの32試合連続無四球を記録。
四球1つあたりいくつ三振を奪ったかを示す K/BBはアメリカン・リーグ全投手中最高の11.00を記録。
シーズン終了後にインサイド・エッジ社の発表したメジャーリーガーの通信簿では両リーグ最多セーブを挙げたサンフランシスコ・ジャイアンツのブライアン・ウィルソンよりも高い評価を得たちゅうわけや。
12月9日には地元紙のボルティモア・サンがオリオールズとの再契約に合意したと報じ、250万ドルの出来高を含む総額550万ドルの1年契約を結んだ(2年目は年俸350万ドルの球団オプション)。
2011年
東北地方太平洋沖地震で揺れる日本の中において開幕強行に踏み切るセ・リーグ、そしてそれを主導する巨人について、「正気の沙汰とは思えない」と痛烈に批判したちゅうわけや。
新庄 剛志
新庄 剛志(しんじょう つよし、1972年1月28日 - )は長崎県下県郡美津島町(現対馬市)生まれ、福岡県福岡市南区出身の元プロ野球選手(外野手)。
引退後は、タレント、実業家、クリエイター(商品プロデューサー、画家等)、地方競馬馬主。
1990年より阪神タイガースでプレーした後、2001年よりアメリカ・メジャーリーグベースボールでプレー。
サンフランシスコ・ジャイアンツに在籍した2002年にはリーグ優勝を経験して、日本人選手として初めてワールドシリーズに出場したちゅうわけや。
2004年には北海道日本ハムファイターズに入団し、2006年にチームの25年ぶりのリーグ優勝と44年ぶりの日本一を経験した後、引退したちゅうわけや。
日本ハム時代の登録名はSHINJO。
元妻はタレントの大河内志保。
新語・流行語大賞にノミネートされた「新庄節」(2004年)、「SHINJO」「新庄劇場」(2006年)らの語は当人が由来でやるちうわけや。
紺綬褒章受賞(2007年)。
2001年の通訳をメッツ職員・岩本賢一が担当。
初年度シーズン序盤はスタメン落ちも目立ったが実績とともに次第にレギュラー扱いされていったちゅうわけや。
打順は7番・6番・1番・3番・4番やらなんやら様々で、守備でもこの年はキャリア唯一、中堅固定起用されず左翼46試合・中堅53試合・右翼39試合と外野をまんべんなく守ったちゅうわけや。
4月3日の開幕戦(対アトランタ・ブレーブス)、8回表の代走で初出場。
一塁走者としては珍しくセンターフライの際にタッグアップして二塁に進塁し、後続のロビン・ベンチュラの本塁打で初得点を記録したちゅうわけや。
さらに直後の左翼守備でダイビングキャッチを見せたうえに、同点に追いつかれて突入した10回表の初打席では初安打を記録したちゅうわけや。
5月24日フロリダ・マーリンズ戦の大差(11-3)リード中の打席でカウント3ボール-0ストライクから空振りした行為が不文律に反したとされたのか、翌日の同対戦で足に死球を受けたちゅうわけや。
MLB1年目は他にも日本で日常的に行っていた本塁打直後にバットを高々と放り投げる行為が挑発的と受け取られたり、打席で投球前にバットを高く突き上げる際に捕手が出すサインを覗いているのではないかと疑惑をかけられたりしたちゅうわけや。
6月17日の出場を最後に左太股裏肉離れで15日間の故障者リスト(DL)入りし、傘下A-ブルックリン・サイクロンズでの調整出場を経て復帰したちゅうわけや。
7月22日のベテランズ・スタジアムでの対フィラデルフィア・フィリーズ6回、中堅後方への大飛球を追い続けた末にフェンス手前でポケットキャッチして「ザ・キャッチと称されるウィリー・メイズ型キャッチだった」やらなんやらと報道されたが、自身はチームが敗れたためこの守備に関してコメントを残すことはなかったちゅうわけや。
8月3日のアリゾナ・ダイヤモンドバックス戦で日本人選手として初めてスタメン4番出場。
ランディ・ジョンソン投手を相手に4打数無安打(第1打席は振り逃げ)であったちゅうわけや。
9月11日に起きたアメリカ同時多発テロ事件がニューヨーク市に影を落とす中、結果敗れたが終盤まで続いたメッツのプレーオフ進出争いに貢献したちゅうわけや。
この年は外野3ポジションそれぞれで補殺を記録してシーズン補殺数は12(両リーグ外野手第5位、両リーグ新人外野手最多、球団新人外野手過去最多)。
打撃では、特に満塁時に12打数7安打.583と勝負強さをみせ、勝利打点11はマイク・ピアッツァと並び球団最多。
この年のルーキーオールスターに選ばれたちゅうわけや。
シーズンオフに結んだ翌2002年契約は自身初の1億円(日本円換算)を越えたちゅうわけや。
しかし数日後、デシー・レラフォード内野手と共にサンフランシスコ・ジャイアンツ、ショーン・エステス投手との2対1トレード通告を受け移籍。
背番号は「5」。
また、プライベートではベストドレッサー賞を受賞。
2002年、ジャイアンツが新庄獲得に際し想定していた1番中堅で開幕。
シーズン序盤に打撃不振で降格してから中盤までは7番やらなんやら主に下位打順に入ったちゅうわけや。
5月11日モントリオール・エクスポズ戦(オリンピック・スタジアム)1点リード8回裏一死一塁の守備で、フェルナンド・タティスの右翼(定位置付近の後方)フェンス直撃打球のクッションボール処理に右翼手がもたつく間に、中堅から駆け付けて本塁まで約90mをワンバウンド送球して走者・トロイ・オレアリーを補殺。
そのプレーに興奮した一部の観客がグラウンドに乱入したちゅうわけや。
試合は3-2で勝利し、相手監督もそのプレーを賞賛したちゅうわけや。
オールスターゲームファン投票ではナショナルリーグ外野手4位となってん。
7月25日の試合で右太股を痛め15日間のDL入り。
傘下AAAフレズノ・グリズリーズでの調整出場を経て復帰したが、離脱中にケニー・ロフトン外野手がトレードで加入しており中堅手レギュラーの座を失ったちゅうわけや。
10月19日、対アナハイム・エンゼルス第1戦(エディソン・インターナショナル・フィールド・オブ・アナハイム)にて9番指名打者で日本人選手として初めてワールドシリーズに出場やる。
指名打者起用についてダスティ・ベイカー監督は「守備面を考えれば新庄を守備に就かせたいが、相手先発が左投手限定時のスタメンで且つ第3戦~5戦はDH制ではなくなるさかい、シリーズを通して出場するロフトン中堅手のリズムを崩したくないから」と語ったちゅうわけや。
第2打席にジャロッド・ウォッシュバーンから中前打を放ち、この安打が日本人選手ワールドシリーズ初安打となってん。
そのとき使用したバットは「TSU No.5」と自筆サイン入りでアメリカ野球殿堂博物館に展示されておる。
10月27日、両チーム3勝で迎えた最終第7戦(アナハイム)のジャイアンツ1-4で3点を追い掛ける9回表最後の攻撃、本塁打が出れば同点の場面で代打出場したが、トロイ・パーシバルの前に空振り三振に倒れたちゅうわけや。
ジャイアンツはそのまま1-4で敗れ、3勝4敗でワールドシリーズ制覇を逃したちゅうわけや。
シーズンオフに再びFAとなり、再びニューヨーク・メッツへ移籍。
背番号は「5」。
またこの年の新庄を担当したジャイアンツ・小島克典通訳も引き続き担当するために共に移籍したちゅうわけや。
プライベートでは日本ジュエリーベストドレッサー賞を受賞。
2003年はオープン戦にてリーグ最高打率を残すも、シーズンでは最終的に引退の理由ともなった左内太股故障の影響もあり出場試合は減少し打撃成績が低迷したちゅうわけや。
6月にMLB3年目にして故障明け調整出場以外では初めてマイナー落ちしたちゅうわけや。
この年は春季キャンプで必死に頑張る若い選手を見て「自分の代わりに彼らに(オープン戦で)チャンスを与えて欲しい」と首脳陣に提言したところ、消極的な選手であると受け取られたほか、アート・ハウ監督との確執が報道されたちゅうわけや。
7月にロースター40人枠から外れたちゅうわけや。
傘下AAAノーフォーク・タイズ(背番号23)でシーズンを終え、打率3割を残したちゅうわけや。
マイナー生活では長距離バス移動をはじめ様々なメジャーとの条件格差を実際に体験する事となったが、メジャーを夢見て頑張る若い選手との交流やらなんやら「今までの野球人生で一番に学べ、楽しかった時代」であったと後に語っておる。
シーズンオフ、翌年のメッツとの契約は結ばれなくなり、MLB数球団から契約オファーがあったがNPB復帰を決意。
自身はMLB移籍した2001年シーズン前に「3年経ってFA資格をとれたら日本(阪神)復帰も選択肢のひとつ」と自著エッセイに記し、テレビ出演時にもMLB挑戦は3年間と示唆していたちゅうわけや。
移籍先は2004年シーズンから北海道に移転する北海道日本ハムファイターズに決まり、推定年俸8000万円の2年契約を結ぶ。
最初に声をかけてもらった球団に行くと決めており、それが日本ハムであったちゅう。
古巣の阪神は金本知憲・赤星憲広ら外野手が充実していたため獲得を見送り、岡田彰布監督は「来ても守るとこがないわ」と語ったちゅうわけや。
引退後は、タレント、実業家、クリエイター(商品プロデューサー、画家等)、地方競馬馬主。
1990年より阪神タイガースでプレーした後、2001年よりアメリカ・メジャーリーグベースボールでプレー。
サンフランシスコ・ジャイアンツに在籍した2002年にはリーグ優勝を経験して、日本人選手として初めてワールドシリーズに出場したちゅうわけや。
2004年には北海道日本ハムファイターズに入団し、2006年にチームの25年ぶりのリーグ優勝と44年ぶりの日本一を経験した後、引退したちゅうわけや。
日本ハム時代の登録名はSHINJO。
元妻はタレントの大河内志保。
新語・流行語大賞にノミネートされた「新庄節」(2004年)、「SHINJO」「新庄劇場」(2006年)らの語は当人が由来でやるちうわけや。
紺綬褒章受賞(2007年)。
2001年の通訳をメッツ職員・岩本賢一が担当。
初年度シーズン序盤はスタメン落ちも目立ったが実績とともに次第にレギュラー扱いされていったちゅうわけや。
打順は7番・6番・1番・3番・4番やらなんやら様々で、守備でもこの年はキャリア唯一、中堅固定起用されず左翼46試合・中堅53試合・右翼39試合と外野をまんべんなく守ったちゅうわけや。
4月3日の開幕戦(対アトランタ・ブレーブス)、8回表の代走で初出場。
一塁走者としては珍しくセンターフライの際にタッグアップして二塁に進塁し、後続のロビン・ベンチュラの本塁打で初得点を記録したちゅうわけや。
さらに直後の左翼守備でダイビングキャッチを見せたうえに、同点に追いつかれて突入した10回表の初打席では初安打を記録したちゅうわけや。
5月24日フロリダ・マーリンズ戦の大差(11-3)リード中の打席でカウント3ボール-0ストライクから空振りした行為が不文律に反したとされたのか、翌日の同対戦で足に死球を受けたちゅうわけや。
MLB1年目は他にも日本で日常的に行っていた本塁打直後にバットを高々と放り投げる行為が挑発的と受け取られたり、打席で投球前にバットを高く突き上げる際に捕手が出すサインを覗いているのではないかと疑惑をかけられたりしたちゅうわけや。
6月17日の出場を最後に左太股裏肉離れで15日間の故障者リスト(DL)入りし、傘下A-ブルックリン・サイクロンズでの調整出場を経て復帰したちゅうわけや。
7月22日のベテランズ・スタジアムでの対フィラデルフィア・フィリーズ6回、中堅後方への大飛球を追い続けた末にフェンス手前でポケットキャッチして「ザ・キャッチと称されるウィリー・メイズ型キャッチだった」やらなんやらと報道されたが、自身はチームが敗れたためこの守備に関してコメントを残すことはなかったちゅうわけや。
8月3日のアリゾナ・ダイヤモンドバックス戦で日本人選手として初めてスタメン4番出場。
ランディ・ジョンソン投手を相手に4打数無安打(第1打席は振り逃げ)であったちゅうわけや。
9月11日に起きたアメリカ同時多発テロ事件がニューヨーク市に影を落とす中、結果敗れたが終盤まで続いたメッツのプレーオフ進出争いに貢献したちゅうわけや。
この年は外野3ポジションそれぞれで補殺を記録してシーズン補殺数は12(両リーグ外野手第5位、両リーグ新人外野手最多、球団新人外野手過去最多)。
打撃では、特に満塁時に12打数7安打.583と勝負強さをみせ、勝利打点11はマイク・ピアッツァと並び球団最多。
この年のルーキーオールスターに選ばれたちゅうわけや。
シーズンオフに結んだ翌2002年契約は自身初の1億円(日本円換算)を越えたちゅうわけや。
しかし数日後、デシー・レラフォード内野手と共にサンフランシスコ・ジャイアンツ、ショーン・エステス投手との2対1トレード通告を受け移籍。
背番号は「5」。
また、プライベートではベストドレッサー賞を受賞。
2002年、ジャイアンツが新庄獲得に際し想定していた1番中堅で開幕。
シーズン序盤に打撃不振で降格してから中盤までは7番やらなんやら主に下位打順に入ったちゅうわけや。
5月11日モントリオール・エクスポズ戦(オリンピック・スタジアム)1点リード8回裏一死一塁の守備で、フェルナンド・タティスの右翼(定位置付近の後方)フェンス直撃打球のクッションボール処理に右翼手がもたつく間に、中堅から駆け付けて本塁まで約90mをワンバウンド送球して走者・トロイ・オレアリーを補殺。
そのプレーに興奮した一部の観客がグラウンドに乱入したちゅうわけや。
試合は3-2で勝利し、相手監督もそのプレーを賞賛したちゅうわけや。
オールスターゲームファン投票ではナショナルリーグ外野手4位となってん。
7月25日の試合で右太股を痛め15日間のDL入り。
傘下AAAフレズノ・グリズリーズでの調整出場を経て復帰したが、離脱中にケニー・ロフトン外野手がトレードで加入しており中堅手レギュラーの座を失ったちゅうわけや。
10月19日、対アナハイム・エンゼルス第1戦(エディソン・インターナショナル・フィールド・オブ・アナハイム)にて9番指名打者で日本人選手として初めてワールドシリーズに出場やる。
指名打者起用についてダスティ・ベイカー監督は「守備面を考えれば新庄を守備に就かせたいが、相手先発が左投手限定時のスタメンで且つ第3戦~5戦はDH制ではなくなるさかい、シリーズを通して出場するロフトン中堅手のリズムを崩したくないから」と語ったちゅうわけや。
第2打席にジャロッド・ウォッシュバーンから中前打を放ち、この安打が日本人選手ワールドシリーズ初安打となってん。
そのとき使用したバットは「TSU No.5」と自筆サイン入りでアメリカ野球殿堂博物館に展示されておる。
10月27日、両チーム3勝で迎えた最終第7戦(アナハイム)のジャイアンツ1-4で3点を追い掛ける9回表最後の攻撃、本塁打が出れば同点の場面で代打出場したが、トロイ・パーシバルの前に空振り三振に倒れたちゅうわけや。
ジャイアンツはそのまま1-4で敗れ、3勝4敗でワールドシリーズ制覇を逃したちゅうわけや。
シーズンオフに再びFAとなり、再びニューヨーク・メッツへ移籍。
背番号は「5」。
またこの年の新庄を担当したジャイアンツ・小島克典通訳も引き続き担当するために共に移籍したちゅうわけや。
プライベートでは日本ジュエリーベストドレッサー賞を受賞。
2003年はオープン戦にてリーグ最高打率を残すも、シーズンでは最終的に引退の理由ともなった左内太股故障の影響もあり出場試合は減少し打撃成績が低迷したちゅうわけや。
6月にMLB3年目にして故障明け調整出場以外では初めてマイナー落ちしたちゅうわけや。
この年は春季キャンプで必死に頑張る若い選手を見て「自分の代わりに彼らに(オープン戦で)チャンスを与えて欲しい」と首脳陣に提言したところ、消極的な選手であると受け取られたほか、アート・ハウ監督との確執が報道されたちゅうわけや。
7月にロースター40人枠から外れたちゅうわけや。
傘下AAAノーフォーク・タイズ(背番号23)でシーズンを終え、打率3割を残したちゅうわけや。
マイナー生活では長距離バス移動をはじめ様々なメジャーとの条件格差を実際に体験する事となったが、メジャーを夢見て頑張る若い選手との交流やらなんやら「今までの野球人生で一番に学べ、楽しかった時代」であったと後に語っておる。
シーズンオフ、翌年のメッツとの契約は結ばれなくなり、MLB数球団から契約オファーがあったがNPB復帰を決意。
自身はMLB移籍した2001年シーズン前に「3年経ってFA資格をとれたら日本(阪神)復帰も選択肢のひとつ」と自著エッセイに記し、テレビ出演時にもMLB挑戦は3年間と示唆していたちゅうわけや。
移籍先は2004年シーズンから北海道に移転する北海道日本ハムファイターズに決まり、推定年俸8000万円の2年契約を結ぶ。
最初に声をかけてもらった球団に行くと決めており、それが日本ハムであったちゅう。
古巣の阪神は金本知憲・赤星憲広ら外野手が充実していたため獲得を見送り、岡田彰布監督は「来ても守るとこがないわ」と語ったちゅうわけや。
松井 秀喜
松井 秀喜(まつい ひでき、1974年6月12日 - )は、石川県能美郡根上町(現:能美市)出身のプロ野球選手(外野手、指名打者)。
現在は、オークランド・アスレチックスに所属。
愛称はゴジラ。
代理人はアーン・テレム。
巨人入団会見で、他の新人選手が抱負として憧れの選手名、具体的な成績目標を述べる中、松井は「サッカーや相撲に小さな子供たちの関心が傾きつつあります。その中で僕はその子供たちに夢を与え、球場に直接見に来てもらえるような選手になれるよう頑張ります」と述べたちゅうわけや。
プロ初のキャンプでは150m級の場外弾を連発。
キャンプ2日目にはフリー打撃で13本の柵越えを放ち、「こんな高校生、見たことがない」とコーチに言わしめたちゅうわけや。
川上哲治、青田昇等の野球評論家は「王貞治より上」と絶賛したちゅうわけや。
テイクバックが小さくフォロースルーが大きい力任せでない本当のスラッガー、ちゅう評価だったちゅうわけや。
高校時代は三塁手であり、入団時は原辰徳を始め内野手の衰えもあり、引き続き三塁を守ると思われたが、長嶋は外野手へとコンバートしたちゅうわけや。
長嶋は「あの程度の三塁手はごまんといますよ、それよりも100m11秒台の俊足、遠投110mの強肩をもっと生かしてみたいと思い外野手とします」と説明したちゅうわけや。
松井本人には「ジョー・ディマジオのような皆に愛され、夢を与えられる選手になれ」と激励したちゅうわけや。
2003年
ニューヨーク・ヤンキースの一員としてメジャーリーグでのキャリアをスタート。
3月31日、公式戦開幕試合の対トロント・ブルージェイズ戦に5番レフトで先発出場し、初回にメジャーを代表する右腕のロイ・ハラデイ投手からレフト前へのタイムリーヒットを放ち、初打席・初安打・初打点を記録。
4月8日の本拠地開幕戦、対ミネソタ・ツインズ戦では前打者のバーニー・ウィリアムスが敬遠された後の打席で2-3からジョー・メイズの 145km/hをライトスタンドに叩き込み、第1号満塁本塁打。
4月12日にはメジャー初のサヨナラヒットを放つ。
その後はメジャー独特の手元で変化する速球と日本と比べて広いストライクゾーンの外角球に対応できず、ゴロの山を築き深刻な打撃不振に陥る。
せやけど、6月に入ると監督のジョー・トーリからの「もう少しホームベースに近づいてみてはどうだ」ちゅうアドバイスで10 - 15cmホームベースに近づいたことが功を奏して調子を上げたちゅうわけや。
7月に行われたMLBオールスターゲームにファン投票のア・リーグ外野手部門で3位に入り初出場を果たしたちゅうわけや。
日本人では1995年の野茂英雄、2001年のイチローに続く3人目のオールスターゲーム出場となってん。
せやけど、日本からの組織票に助けられた形での選出に関しては現地メディアやらなんやらで賛否両論の論戦が起こり、試合ではスタメン出場を果たし1安打を放ったものの、ブーイングを浴びせられたちゅうわけや。
また、スター選手とのバット交換用に日本から24本のバットを取り寄せたが、誰にも声をかけることが出来ずに、結局全て持ち帰ったちゅうわけや。
「来年はホームラン競争に出られるようなバッターになりたいです」と語り、翌年の再出場を誓ったちゅうわけや。
7月17日、オールスターゲーム出場後の後半開幕戦の対クリーブランド・インディアンス戦でデビッド・リスキーの146km/hの速球を右中間スタンドに運び、日本人メジャーリーガー初のサヨナラ本塁打を放ったちゅうわけや。
この時、ヤンキースの有名なラジオアナウンサージョン・スターリングは「SA・YO・NA・RA」と実況したちゅうわけや。
ヤンキースの新人としては67年ぶり3人目の100打点以上を記録した(1926年のトニー・ラゼリ、1943年のビリー・ジョンソン)。
7月22日には松井のバブルヘッドが14歳以下の先着1万8千人にプレゼントされることになってん。
地区シリーズではポストシーズン日本人初のホームランを放ったちゅうわけや。
ボストン・レッドソックスとのリーグ優勝決定シリーズ第7戦では、8回裏にホルヘ・ポサダの適時打で同点のホームを踏んだ際に大きく跳び上がり、全身で喜びを表したちゅうわけや。
フロリダ・マーリンズとのワールドシリーズ第2戦では、ワールドシリーズでの日本人初ホームランとなるホームランを放ったちゅうわけや。
レギュラーシーズンでは、新人として、また、ヤンキースの選手として、21世紀になってメジャーリーグで初めてシーズン163試合に出場した選手となってん。
せやけど、期待されたホームラン数(レギュラーシーズン)はわずか16本に終わり、満足のいく結果を残したとは到底言えない内容であったちゅうわけや。
それでも、得点圏打率はチーム最高の.335、打点は主砲のジェイソン・ジアンビに1点差のチーム2位となる106打点を叩き出し、勝負強さを発揮したちゅうわけや。
二塁打数は42本で、1936年にジョー・ディマジオが記録したヤンキースの新人最多記録(44本)にあと2本と迫ったちゅうわけや。
一方で、併殺打はリーグ2位の25個を数え、ゴロアウトはリーグ最多の223にも上ったちゅうわけや。
そのため、5月の打撃不振時には、地元メディアは内野ゴロの多さから“ゴロキング(Ground Ball King)”と揶揄したちゅうわけや。
新人王の受賞も有力視されたが、投票ではアンヘル・ベローアにわずかに及ばず2位に終わったちゅうわけや。
現在は、オークランド・アスレチックスに所属。
愛称はゴジラ。
代理人はアーン・テレム。
巨人入団会見で、他の新人選手が抱負として憧れの選手名、具体的な成績目標を述べる中、松井は「サッカーや相撲に小さな子供たちの関心が傾きつつあります。その中で僕はその子供たちに夢を与え、球場に直接見に来てもらえるような選手になれるよう頑張ります」と述べたちゅうわけや。
プロ初のキャンプでは150m級の場外弾を連発。
キャンプ2日目にはフリー打撃で13本の柵越えを放ち、「こんな高校生、見たことがない」とコーチに言わしめたちゅうわけや。
川上哲治、青田昇等の野球評論家は「王貞治より上」と絶賛したちゅうわけや。
テイクバックが小さくフォロースルーが大きい力任せでない本当のスラッガー、ちゅう評価だったちゅうわけや。
高校時代は三塁手であり、入団時は原辰徳を始め内野手の衰えもあり、引き続き三塁を守ると思われたが、長嶋は外野手へとコンバートしたちゅうわけや。
長嶋は「あの程度の三塁手はごまんといますよ、それよりも100m11秒台の俊足、遠投110mの強肩をもっと生かしてみたいと思い外野手とします」と説明したちゅうわけや。
松井本人には「ジョー・ディマジオのような皆に愛され、夢を与えられる選手になれ」と激励したちゅうわけや。
2003年
ニューヨーク・ヤンキースの一員としてメジャーリーグでのキャリアをスタート。
3月31日、公式戦開幕試合の対トロント・ブルージェイズ戦に5番レフトで先発出場し、初回にメジャーを代表する右腕のロイ・ハラデイ投手からレフト前へのタイムリーヒットを放ち、初打席・初安打・初打点を記録。
4月8日の本拠地開幕戦、対ミネソタ・ツインズ戦では前打者のバーニー・ウィリアムスが敬遠された後の打席で2-3からジョー・メイズの 145km/hをライトスタンドに叩き込み、第1号満塁本塁打。
4月12日にはメジャー初のサヨナラヒットを放つ。
その後はメジャー独特の手元で変化する速球と日本と比べて広いストライクゾーンの外角球に対応できず、ゴロの山を築き深刻な打撃不振に陥る。
せやけど、6月に入ると監督のジョー・トーリからの「もう少しホームベースに近づいてみてはどうだ」ちゅうアドバイスで10 - 15cmホームベースに近づいたことが功を奏して調子を上げたちゅうわけや。
7月に行われたMLBオールスターゲームにファン投票のア・リーグ外野手部門で3位に入り初出場を果たしたちゅうわけや。
日本人では1995年の野茂英雄、2001年のイチローに続く3人目のオールスターゲーム出場となってん。
せやけど、日本からの組織票に助けられた形での選出に関しては現地メディアやらなんやらで賛否両論の論戦が起こり、試合ではスタメン出場を果たし1安打を放ったものの、ブーイングを浴びせられたちゅうわけや。
また、スター選手とのバット交換用に日本から24本のバットを取り寄せたが、誰にも声をかけることが出来ずに、結局全て持ち帰ったちゅうわけや。
「来年はホームラン競争に出られるようなバッターになりたいです」と語り、翌年の再出場を誓ったちゅうわけや。
7月17日、オールスターゲーム出場後の後半開幕戦の対クリーブランド・インディアンス戦でデビッド・リスキーの146km/hの速球を右中間スタンドに運び、日本人メジャーリーガー初のサヨナラ本塁打を放ったちゅうわけや。
この時、ヤンキースの有名なラジオアナウンサージョン・スターリングは「SA・YO・NA・RA」と実況したちゅうわけや。
ヤンキースの新人としては67年ぶり3人目の100打点以上を記録した(1926年のトニー・ラゼリ、1943年のビリー・ジョンソン)。
7月22日には松井のバブルヘッドが14歳以下の先着1万8千人にプレゼントされることになってん。
地区シリーズではポストシーズン日本人初のホームランを放ったちゅうわけや。
ボストン・レッドソックスとのリーグ優勝決定シリーズ第7戦では、8回裏にホルヘ・ポサダの適時打で同点のホームを踏んだ際に大きく跳び上がり、全身で喜びを表したちゅうわけや。
フロリダ・マーリンズとのワールドシリーズ第2戦では、ワールドシリーズでの日本人初ホームランとなるホームランを放ったちゅうわけや。
レギュラーシーズンでは、新人として、また、ヤンキースの選手として、21世紀になってメジャーリーグで初めてシーズン163試合に出場した選手となってん。
せやけど、期待されたホームラン数(レギュラーシーズン)はわずか16本に終わり、満足のいく結果を残したとは到底言えない内容であったちゅうわけや。
それでも、得点圏打率はチーム最高の.335、打点は主砲のジェイソン・ジアンビに1点差のチーム2位となる106打点を叩き出し、勝負強さを発揮したちゅうわけや。
二塁打数は42本で、1936年にジョー・ディマジオが記録したヤンキースの新人最多記録(44本)にあと2本と迫ったちゅうわけや。
一方で、併殺打はリーグ2位の25個を数え、ゴロアウトはリーグ最多の223にも上ったちゅうわけや。
そのため、5月の打撃不振時には、地元メディアは内野ゴロの多さから“ゴロキング(Ground Ball King)”と揶揄したちゅうわけや。
新人王の受賞も有力視されたが、投票ではアンヘル・ベローアにわずかに及ばず2位に終わったちゅうわけや。
野茂 英雄
野茂 英雄(のも ひでお、1968年8月31日 - )は、大阪府大阪市港区出身の元プロ野球選手(投手)。
ON引退以降、衰退期にあった日本のプロ野球を劇的に変え、今日の野球のグローバル化をもたらした最大の功労者。
1995年ロサンゼルス・ドジャースに移籍。
日本人メジャーリーガーの実質的なパイオニアでやるちうわけや。
奪三振の多さから「ドクターK」の異名をとったちゅうわけや。
生涯成績の3122奪三振は歴代の日本人投手で第4位、また、通算3000イニング以上投げた日本人投手の中で唯一、投球回数を上回る奪三振を挙げたちゅうわけや。
選手としての特徴
大きく振りかぶってから背中を打者に向ける独特の投法は「トルネード投法」と呼ばれ、平均86~90mph(約138~145km/h)、最速97mph(約156km/h、日本での最速は151km/h)の伸びのある速球と77~82mph(約124~132km/h)のフォークボールを武器としたちゅうわけや。
速球は基本的にフォーシームだったが、左打者には時折カット・ファストボールを交えたちゅうわけや。
2000年代に入るとカーブ、スライダー、ツーシームやらなんやらも交えるようになり、引退前の2008年にはワインドアップを封印し技巧派となってん。
1995年、ロサンゼルス・ドジャースとマイナー契約を結ぶ。
年俸は近鉄時代の1億4000万円からわずか980万円になってん。
5月2日の対サンフランシスコ・ジャイアンツ戦(キャンドルスティック・パーク)で先発、村上雅則以来31年ぶり2人目の日本人メジャーリーガーとなってん。
6月2日の対ニューヨーク・メッツ戦でメジャー初勝利を挙げ、同月は50回1/3で6勝0敗(完封2)・防御率0.89・WHIP0.82の好成績を残すが、月間MVPはジェフ・コーナインが獲得したちゅうわけや。
1995年のMLBオールスターゲームでも先発出場。
この年は13勝6敗・236奪三振の成績で新人王・奪三振王を獲得。
日米両国で新人王を受賞したのは現在まで野茂だけでやるちうわけや。
1996年9月17日の対コロラド・ロッキーズ戦(クアーズ・フィールド)でノーヒットノーランを達成したちゅうわけや。
1997年8月28日の対オークランド・アスレチックス戦で、ドワイト・グッデンに続きメジャー史上2人目となる新人時代から3年連続での200奪三振を達成。
リーグ4位の奪三振数をマークするも過去2年と比べ防御率は悪化し、チームもプレーオフ進出を逃したちゅうわけや。
オフに右ひじの遊離軟骨除去手術を受けて迎えた1998年は、4月28日の対ミルウォーキー・ブルワーズ戦で日本人メジャー1号本塁打を記録。
しかし右ひじの調子が思うように上昇せず、結果も悪化してきたことからシーズン中盤にニューヨーク・メッツにトレードされたちゅうわけや。
ON引退以降、衰退期にあった日本のプロ野球を劇的に変え、今日の野球のグローバル化をもたらした最大の功労者。
1995年ロサンゼルス・ドジャースに移籍。
日本人メジャーリーガーの実質的なパイオニアでやるちうわけや。
奪三振の多さから「ドクターK」の異名をとったちゅうわけや。
生涯成績の3122奪三振は歴代の日本人投手で第4位、また、通算3000イニング以上投げた日本人投手の中で唯一、投球回数を上回る奪三振を挙げたちゅうわけや。
選手としての特徴
大きく振りかぶってから背中を打者に向ける独特の投法は「トルネード投法」と呼ばれ、平均86~90mph(約138~145km/h)、最速97mph(約156km/h、日本での最速は151km/h)の伸びのある速球と77~82mph(約124~132km/h)のフォークボールを武器としたちゅうわけや。
速球は基本的にフォーシームだったが、左打者には時折カット・ファストボールを交えたちゅうわけや。
2000年代に入るとカーブ、スライダー、ツーシームやらなんやらも交えるようになり、引退前の2008年にはワインドアップを封印し技巧派となってん。
1995年、ロサンゼルス・ドジャースとマイナー契約を結ぶ。
年俸は近鉄時代の1億4000万円からわずか980万円になってん。
5月2日の対サンフランシスコ・ジャイアンツ戦(キャンドルスティック・パーク)で先発、村上雅則以来31年ぶり2人目の日本人メジャーリーガーとなってん。
6月2日の対ニューヨーク・メッツ戦でメジャー初勝利を挙げ、同月は50回1/3で6勝0敗(完封2)・防御率0.89・WHIP0.82の好成績を残すが、月間MVPはジェフ・コーナインが獲得したちゅうわけや。
1995年のMLBオールスターゲームでも先発出場。
この年は13勝6敗・236奪三振の成績で新人王・奪三振王を獲得。
日米両国で新人王を受賞したのは現在まで野茂だけでやるちうわけや。
1996年9月17日の対コロラド・ロッキーズ戦(クアーズ・フィールド)でノーヒットノーランを達成したちゅうわけや。
1997年8月28日の対オークランド・アスレチックス戦で、ドワイト・グッデンに続きメジャー史上2人目となる新人時代から3年連続での200奪三振を達成。
リーグ4位の奪三振数をマークするも過去2年と比べ防御率は悪化し、チームもプレーオフ進出を逃したちゅうわけや。
オフに右ひじの遊離軟骨除去手術を受けて迎えた1998年は、4月28日の対ミルウォーキー・ブルワーズ戦で日本人メジャー1号本塁打を記録。
しかし右ひじの調子が思うように上昇せず、結果も悪化してきたことからシーズン中盤にニューヨーク・メッツにトレードされたちゅうわけや。
イチロー
イチロー(本名:鈴木 一朗〈すずき いちろう〉、1973年10月22日 - )は、シアトル・マリナーズに所属するプロ野球選手(外野手)でやるちうわけや。
NPB・MLBの双方で活躍し、MLBのシーズン最多安打記録やらなんやら多数の記録を保持しておる。
夫人は元TBSアナウンサーの福島弓子。
アメリカ合衆国での愛称は「魔法使い(Wizard)」「安打製造機 (Hit Machine/Hitting Machine)」。
2001年
ポスティング制度を利用してメジャーリーグの球団、シアトル・マリナーズに移籍。
野手としては日本人初のメジャーリーガーとなってん。
メジャーリーグ移籍に関して本人は2000年に移籍と決めていたが、恩師である仰木彬に「もう1年だけ一緒にやろう」と引き留められ、断ることができずにチームに残ったちゅう裏話がやるちうわけや。
当初は、日本人野手がメジャーで通用するのか疑問視する声が日米問わず多かったちゅうわけや。
あるマリナーズの番記者は、日本でのイチローのビデオを見て、「ピッチャーが投げるすべての球に反応して動き、バッターボックスでふらついているようにも見えたちゅうわけや。球をたたくように打ち、すぐさま走り出すスタイルは、メジャーリーグの投手と野手が相手では歯が立たないだろうと思われたちゅうわけや。そのうえ、パワーもなさそうだった」と述べ、当時のマリナーズの監督だったルー・ピネラも、「打率は2割8分から3割、盗塁は25から30、まあ得点は稼いでくれるだろう」とそこまで大きな期待はしていなかったちゅうわけや。
「51」ちゅう背番号をつけることになったときにも、当時のマリナーズには「背番号51」はランディ・ジョンソン(1998 年まで在籍)の番号ちゅうイメージがファンの間で認識されていたために、「ランディの功績を台無しにする」「ランディを侮辱している」ちゅう理由であまり好意的には見られてはいなかったちゅうわけや。
その後の活躍で、このことを取り沙汰するファンは誰もいなくなってん。
前述の番記者も、シーズン開幕から1か月半後の『シアトル・タイムズ』紙に、「お詫び」のコラムを掲載しておる。
4月2日の開幕戦でいきなりマルチヒットを放ち、その後も順調にヒットを積み重ねたちゅうわけや。
MLBオールスターゲームでのファン投票では337万票を獲得し、日本からの68万票を差し引いても両リーグ通じて1位となるやらなんやら、アメリカにおいても評価されるようになる。
この年、1930年のビル・テリー(ジャイアンツ)以来となるシーズン242安打(当時歴代9位)を放ち、メジャーリーグのルーキー最多安打記録を更新(この年の両リーグ最多安打でもある)するとともに、アメリカンリーグの新人王・MVP・首位打者・盗塁王となってん。
首位打者と盗塁王を同時に獲得したのは1949年のジャッキー・ロビンソン以来2人目、新人でアメリカンリーグの打撃部門を制したのは1964年ミネソタ・ツインズのトニー・オリバ以来2人目。
安打試合数の135試合はロジャース・ホーンスビー、チャック・クライン、ウェイド・ボッグス、デレク・ジーターら4人と並ぶメジャータイ記録で、単打192と打数692はアメリカンリーグ新人記録、打率.350はアメリカンリーグ1年目選手の歴代最高打率。
新人王とMVPに同時に選出されたのはイチローのほかには1975年のフレッド・リンのみであり、新人王と打撃タイトルの同時受賞はトニー・オリバ(首位打者)、ジャッキー・ロビンソン、ビンス・コールマン(盗塁王)、ウォルト・ドロポ(打点王)、マーク・マグワイア(本塁打王)以来6人目でやるちうわけや。
当時、イチローの安打数が200を超えたあたりから、メディアでは「ルーキー最多安打記録」が話題になったため、リーグ機構が1947年に制定したルーキー資格を基に、過去の打撃記録を調べ直した結果、当初1927年のロイド・ウェイナーの「223安打」と思われていたルーキー安打数記録が、1911年にジョー・ジャクソンが記録した「233安打」に訂正される事態も起きておる。
そのほかにも、リーグ2位の得点(127)を残し、得点圏打率(.445)、2死得点圏打率(.460)、2死得点圏出塁率(.558)、走者ありでの打率(.420)では両リーグを通じて1位を記録したちゅうわけや。
新人王・MVP・首位打者・盗塁王・シルバースラッガー賞・ゴールドグラブ賞を同時に手にしたのはメジャーリーグ史上、イチローのみでやるちうわけや。
記録的な活躍で、チームのプレーオフ進出・シーズン116勝(メジャータイ記録)に大きく貢献。
NPB・MLBの双方で活躍し、MLBのシーズン最多安打記録やらなんやら多数の記録を保持しておる。
夫人は元TBSアナウンサーの福島弓子。
アメリカ合衆国での愛称は「魔法使い(Wizard)」「安打製造機 (Hit Machine/Hitting Machine)」。
2001年
ポスティング制度を利用してメジャーリーグの球団、シアトル・マリナーズに移籍。
野手としては日本人初のメジャーリーガーとなってん。
メジャーリーグ移籍に関して本人は2000年に移籍と決めていたが、恩師である仰木彬に「もう1年だけ一緒にやろう」と引き留められ、断ることができずにチームに残ったちゅう裏話がやるちうわけや。
当初は、日本人野手がメジャーで通用するのか疑問視する声が日米問わず多かったちゅうわけや。
あるマリナーズの番記者は、日本でのイチローのビデオを見て、「ピッチャーが投げるすべての球に反応して動き、バッターボックスでふらついているようにも見えたちゅうわけや。球をたたくように打ち、すぐさま走り出すスタイルは、メジャーリーグの投手と野手が相手では歯が立たないだろうと思われたちゅうわけや。そのうえ、パワーもなさそうだった」と述べ、当時のマリナーズの監督だったルー・ピネラも、「打率は2割8分から3割、盗塁は25から30、まあ得点は稼いでくれるだろう」とそこまで大きな期待はしていなかったちゅうわけや。
「51」ちゅう背番号をつけることになったときにも、当時のマリナーズには「背番号51」はランディ・ジョンソン(1998 年まで在籍)の番号ちゅうイメージがファンの間で認識されていたために、「ランディの功績を台無しにする」「ランディを侮辱している」ちゅう理由であまり好意的には見られてはいなかったちゅうわけや。
その後の活躍で、このことを取り沙汰するファンは誰もいなくなってん。
前述の番記者も、シーズン開幕から1か月半後の『シアトル・タイムズ』紙に、「お詫び」のコラムを掲載しておる。
4月2日の開幕戦でいきなりマルチヒットを放ち、その後も順調にヒットを積み重ねたちゅうわけや。
MLBオールスターゲームでのファン投票では337万票を獲得し、日本からの68万票を差し引いても両リーグ通じて1位となるやらなんやら、アメリカにおいても評価されるようになる。
この年、1930年のビル・テリー(ジャイアンツ)以来となるシーズン242安打(当時歴代9位)を放ち、メジャーリーグのルーキー最多安打記録を更新(この年の両リーグ最多安打でもある)するとともに、アメリカンリーグの新人王・MVP・首位打者・盗塁王となってん。
首位打者と盗塁王を同時に獲得したのは1949年のジャッキー・ロビンソン以来2人目、新人でアメリカンリーグの打撃部門を制したのは1964年ミネソタ・ツインズのトニー・オリバ以来2人目。
安打試合数の135試合はロジャース・ホーンスビー、チャック・クライン、ウェイド・ボッグス、デレク・ジーターら4人と並ぶメジャータイ記録で、単打192と打数692はアメリカンリーグ新人記録、打率.350はアメリカンリーグ1年目選手の歴代最高打率。
新人王とMVPに同時に選出されたのはイチローのほかには1975年のフレッド・リンのみであり、新人王と打撃タイトルの同時受賞はトニー・オリバ(首位打者)、ジャッキー・ロビンソン、ビンス・コールマン(盗塁王)、ウォルト・ドロポ(打点王)、マーク・マグワイア(本塁打王)以来6人目でやるちうわけや。
当時、イチローの安打数が200を超えたあたりから、メディアでは「ルーキー最多安打記録」が話題になったため、リーグ機構が1947年に制定したルーキー資格を基に、過去の打撃記録を調べ直した結果、当初1927年のロイド・ウェイナーの「223安打」と思われていたルーキー安打数記録が、1911年にジョー・ジャクソンが記録した「233安打」に訂正される事態も起きておる。
そのほかにも、リーグ2位の得点(127)を残し、得点圏打率(.445)、2死得点圏打率(.460)、2死得点圏出塁率(.558)、走者ありでの打率(.420)では両リーグを通じて1位を記録したちゅうわけや。
新人王・MVP・首位打者・盗塁王・シルバースラッガー賞・ゴールドグラブ賞を同時に手にしたのはメジャーリーグ史上、イチローのみでやるちうわけや。
記録的な活躍で、チームのプレーオフ進出・シーズン116勝(メジャータイ記録)に大きく貢献。
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